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§26. 千葉恭の長男宅訪問

1 千葉恭の長男に会う
 みちのくに植田の緑が広がる6月のある日、私はわくわくしながら国道4号線を南下して水沢に向かった。千葉恭の長男E氏宅を訪れる約束の日がやってきたからである。果たして水沢の真城に〝町下〟という地名があり、そ場所に当時千葉恭の実家が8反歩の田圃を有していたかどうかが確認できる日だ。一度E氏宅が近づいたところで電話をして道順を訊ねると、道路の脇に立って待っているからという。優しい人柄に感謝。三男のM氏も父は優しい人だったと言っていたが、父恭の人柄を受け継いでいて長男のE氏も三男のM氏も優しいのだろう。
(1)〔施肥表A〕〔一一〕は賢治の設計
 お蔭でE氏の自宅には迷わずたどり着けた。玄関を入るとE氏の夫人も現れて居間に招き入れられたので、ご夫妻からいろいろなお話をお聞きできた。
 まずお聞きしたことは例の田圃のことである。『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載のあの3枚の〔施肥表A〕のコピ-をお見せしながら、
『お父さんが真城のご自宅に戻って農業をしていた頃〝町下〟に8反の田圃があったでしょうか。』
と訊ねると、嬉しいことに
『たしかに真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さから言っても実家の田圃に間違いない。』
という予想通りの回答であった。そして
『そもそも水沢の〝真城折居〟はかつては〝真城村町〟と呼ばれていて、〝折居〟は以前は〝町(まち)〟という呼称だった。』
ということも教えてもらった。
 これで〔施肥表 A〕の〔一一〕に記されていた
  場処 真城村 町下 反別 8反0畝
はまさしく当時の千葉恭の実家の田圃のことであり、
 〔施肥表A〕〔一一〕は千葉恭の実家の水田に対して宮澤賢治が設計した施肥表である。
と断言できるだろう。
 また〝堤沢〟及び〝中林下〟という地名が〝町下〟の近くにあるということも判った。もっと正確に言うと近くに〝堤ヶ沢〟及び〝中林下〟という地名が真城にあることが解った。おそらく堤ヶ沢は堤沢のことだろうから
  町下、堤沢、中林下
という地名のいずれもが当時の真城村に存在していたと言っていいだろう。つまり3枚の〔施肥表 A〕のそれぞれに記された場処
   〔一一〕の〝町下〟
   〔一五〕の〝堤沢〟
   〔一六〕の〝中林下〟
が全て実在していたということになるので、これらの3枚の施肥表はいずれも当時真城村に実在していた田圃に対して賢治が設計した肥料設計書であったとみなして間違いなかろう。
 すなわち、
 〔施肥表A〕〔一一〕〔一五〕〔一六〕は千葉恭に頼まれて宮澤賢治が設計した真城村の田圃に対する施肥表である。
と言い切っていいと判断できたのである。

(2)〝3枚の施肥表〟の役割
 いままで千葉恭が残した幾つかの資料から一方的に賢治を見てきたが、これで初めて逆方向から見ることができた。つまりいままでの流れの図式は
 ・千葉恭→賢治
というものであったが、
 ・賢治→千葉恭
という流れも初めて成立した。これでやっと両方向の流れが出来た。
 それゆえ、以前に立てた仮説
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間強を2人は下根子桜の別荘で寝食を共にしていた。
に対してますます私は自信が深まってきた。
 なぜなら千葉恭の事に関しては賢治本人は一切語っていないと思っていたし、下根子桜の別荘の隣人伊藤忠一でさえも千葉恭なんて知らないと言っていたそうだが、これら3枚の施肥表の存在が千葉恭と賢治の間に親交があったことを示していることになると思うからである。つまり、これら3枚の施肥表は賢治と千葉恭の深交を担保する客観的な資料である。くどくなるが、言い換えれば〝3枚の施肥表〟すなわち
 『校本全集』の〔施肥表 A〕の〔一一〕〔一五〕〔一六〕は宮澤賢治と千葉恭の間に親交があったことをはからずも賢治自身が雄弁に物語っている、客観的な資料の一つである。
ということである。偶然気が付いた〝3枚の施肥表〟の存在とその役割に私は感謝したのであった。
(4) 千葉恭に関する長男夫妻の証言
 さて千葉恭の長男E氏の証言により懸案の〝町下〟の田圃の件は解決したが、これ以外にその際にお聞きできたE氏の父千葉恭に関する証言は下記の通りである。
・戦後父は仕事の関係上実家にはおられず、一方E氏は実家から学校に通ったので一緒に暮らすことはできなかった。
・賢治に関して父が言っていたことは、羅須地人協会に居たことがあるとういうことぐらいであり、その他のことについては詳しく喋ることはなかった。
・「研郷會」のことはよく解らないが、村の青年達と運動会をやったということは言っていた。
・父が賢治に関連したことで断片的に喋っていたことは、
  賢治は朝早く起きてお日様に向かってお経を上げていた。
  父はその間、杉の葉を燃やしてお湯を沸かしていた。
  賢治の実家によく使いに行った。
  賢治の母は父千葉恭に対しても礼儀正しかった。
  父は上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
  久慈勤務の時に大火に遭い賢治に関する資料は焼けた。
  母(恭の妻)が「賢治が亡くなった際に宮澤家から電報が来た」と言っていた。
  水沢第一高等学校で賢治に関して講演したことがあるようだ。
  父は賢治に関する数冊の図書(佐藤隆房の『宮澤賢治』など)を持っていた。
  父はマンドリンを持っていた(E氏は父とそのマンドリンに関する面白いエピソードも教えてくれた)。
  父(恭)はトマトがとても嫌いでった。
などである。

 そしてこのトマトのエピソードを受けてE氏夫人が次のように証言してくれた。
・美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういう訳かお義父さん(千葉恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった、お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがないときにトマトだけを食わされたことがあったからだった。
と。
 そういえば『イーハトーヴォ』復刊5号(宮沢賢治の会)では
 米のない時は”トマトでも食べましよう”と言つて、畑からとつて来たトマトを五つ六つ食べて腹のたしにしたこともあつた。
とか、また『四次元 7号』(宮沢賢治友の会)では
 開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。
と語っている千葉恭であれば気の毒であり、さもありなんと思ってしまった。
その他にも夫人は
・お義父さんは宮澤賢治の実家は立派だったよと言っていた。
・お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たと言っていた。
ということも教えてくれた。

 特に有り難かったのがこの最後の証言である。私が寄寓期間を訊く前にE氏夫人が教えてくれたことであり、おそらく千葉恭がE氏夫人に正直に吐露していたであろうことゆえ信憑性も高かろう。
 一方で千葉恭本人が『イーハトーヴォ』復刊5号で
 賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
と語っているせいか、下根子桜寄寓期間は『約半年説』もあるようだ。
 しかしE氏夫人に対してはそうではなくて、『7~8ヶ月くらい』であったと千葉恭は喋っていたことになる。するとこの証言は『約半年説』ではなくて、以前私が立てた仮説
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間強を2人は下根子桜の別荘で寝食を共にしていた。
の方の傍証となるのではなかろうか、と思えたから有り難かったのである。

(5) 〝町下〟の田圃跡地を訪ねる 
 千葉恭の長男夫妻からお話をお聞きできて私にはいろいろな収穫があったので、お二人にひたすら感謝するばかりであった。お蔭様で懸案事項の一つは解決したし、他にもいくつかのことが出来そうになって来たと思えたからだ。
 なのに、私は厚かましくもさらにE氏にお願いした、『お父さん(千葉恭)の墓所を教えてくれませんか』と。するとE氏は案内するからと言うのでついて行くと『まずは食事しましょう』と言ってレストランの前で車を駐めた。するとそこには三男のM氏も来ていて合流、千葉恭の長男E氏と三男M氏と私の3人で一緒に食事、挙げ句私はすっかり御馳走になったしまったのだった。
 その後千葉恭の墓に案内してもらってお線香を上げさせてもらい、さらには千葉恭の実家の田圃がかつてあった〝町下〟の田圃跡地へ案内してもらった。残念ながら、〝町下〟に着いてすぐに分かったことだが、一帯はバイパス(現国道)が通っていてかつての〝町下〟の面影はもうなかったことだ。E氏は、千葉家の田圃はいまはもう存在しないがと言って、当時の千葉家の〝町下〟の田圃があった辺りを指さして示してくれた。
 E氏の語るところによると、当時国道(現在の旧国道)沿いには家並みが連なっていたという。その家並みが続いていたところがかつての地名で言えば〝町(まち)〟だったという。その一帯を眺めてみると、その家並みの東側(現在の国道周辺)はその場所よりは地形的に一段低くなっていることが直ぐに見てとれるから、〝町〟の下側という意味でその一帯が〝町下〟と呼ばれたであろうことが容易に想像できた。そして、約80年ほど前ならば眼の前には水田が拡がっており、賢治の指導を受けた〔施肥表 A〕に基づいて肥料を散布している千葉恭の姿をそこに思い浮かべてみた。その施肥による成果は如何ほどだったのであろうかとも。
 そして、こうやって〝町下〟の田圃跡地を実際眺めてみていると以前に立てた仮説
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間強を2人は下根子桜の別荘で寝食を共にしていた。
に結構自信が深まっていくのだった。
 最後に、E氏に案内してもらって千葉恭の実家の建物を外から見せてもらった。実家は〝町下〟の田圃跡地の近くにあった。いまその建物には誰も住んでいないということであったが、屋敷内に聳えるエンジュの大木が往時を偲ばせてくれた。なお、この実家には以前三男M氏宅を訪れた日の帰途一度私は立ち寄っていたのであるが、その際には近所の方に訊ねて知ったものであった。ところがこの日はそれとは違って、千葉恭の2人の息子と一緒にその実家を目の当たりに眺めることができたわけで、改めて次のようなことを強く感じた。
 千葉恭は賢治と下根子桜で一緒に、それも8ヶ月ほどの長期間にわたって生活した唯一の人物である。昨今「独居自炊」と言われるようになってしまった「羅須地人協会時代」だが実はその約3分の1の期間は「独居」ではなかった。千葉恭は賢治と長期間寝食を共にしていたのだから、身近にいて賢治の総体をつぶさに見知っていた貴重な人物であり、賢治の「下根子桜時代」の評価を左右する重要人物なのだということを世間に知らせなけらばならない。
と。
(6) 帰農した千葉恭と賢治の関係
 さてこれら3枚の施肥表の中にはいずれにも〝昭和三年度施肥表〟と記されている項目がある。この「昭和3年度」にも私は注目させられる。千葉恭が帰農してからの賢治との関係を示唆してくれる思うからである。
 この項目があるということは、これら3枚の施肥表はいずれも昭和3年度用に設計された施肥表であるということだから、早ければ昭和2年の初冬~遅くとも昭和3年の春の間に賢治が設計したと推測できる。なぜなら賢治は主に農閑期に肥料設計書を作成したと伝えられているから、昭和3年度用のものであればこの期間に設計されたものだと思うからである。
 一方千葉恭は、真城の実家に戻って帰農した後もしばしば下根子桜を訪ねて賢治の指導を受けていたと言っている。例えば
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。    
とか
 私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
      <いずれも『四次元 5号』(宮沢賢治友の会 Mar-50)より>
と。さてここで、賢治は千葉恭に
  施肥の方法はどうであつたか?
と訊いているわけだが、これは賢治が千葉恭の実家の田圃に対して設計した肥料設計書に基づいて千葉恭が行った施肥の方法はどうであったかという意味であろう。あるいはまた、帰農した千葉恭は地元で32名の仲間と一緒に「研郷会」を組織したわけだが、この施肥表3枚のうち千葉恭の実家の分以外の2枚は、この会の同志の誰かの田圃(堤沢や中林下)に対して千葉恭が賢治に依頼して設計して貰ったものであり、その施肥表に基づいて行った施肥の方法はどうであったかという意味で捉えてもほぼ間違いなかろう。そして
 夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。
ということだから、深夜まで二人は農作物の耕作などについて熱心に話し合ったに違いなくその日は下根子に泊まってしまったかも知れない。そういうことがしばしばあり、寄寓を止めはしたけれど帰農後も二人の親交は続いていたということであろう。
 すなわち、真城村の田圃に対して賢治が設計したこれら3枚の昭和3年度の〔施肥表 A〕の存在は、千葉恭が下根子桜を去ってからの賢治と千葉恭とのを関係を示唆してくれていると言える。
 千葉恭はおそらく昭和2年の春に真城村の実家に戻って帰農。とはいえ、その後もしばしば下根子桜に賢治を訪れて農業経済・土壌・肥料等の問題を教わり、それを持ち帰っては「研郷會」の同志に伝達講習を行い、それに基づいた農業を実践してその成果を皆で検討し合い、その結果を再び賢治に報告するという繰り返しで賢治から指導を受けていたし、それはおそらく昭和3年の春頃までは少なくとも続いていたと考えてもよかろう。
 言い換えれば、
 賢治と千葉恭の間には、大正13年11月12日(水)に穀物検査所で出会ってから昭和3年の春頃までの約3年間(これは「下根子桜時代」をほぼ含む期間でもある)の親交があり、わけても大正15年の6月末~少なくとも昭和2年3月の初め頃までは下根子桜の宮澤家の別荘で一緒に生活していたという程の深交があった。
と言っていいだろう。
 だから私は不思議に思う。これだけの交わりが賢治との間にありながらどうして千葉恭は審らかにされていないのだろうかと。例えば、どうして『宮沢賢治語彙辞典』の項目に「千葉恭」はないのだろうか。はたして賢治研究にとって千葉恭はそれほど重要な人物ではないのだろうか。『新校本宮澤賢治全集』には賢治が下根子桜で使っていて、その後森荘已池が譲り受けた書棚の写真さえも載っている(『新校本十六巻(下)』)というのに、私の管見のせいかも知れないが千葉恭の写っている写真は一葉も載っていない。はたして
     書棚>千葉恭
という不等式は正しいのだろうか。

(7) まとめ
 今回の千葉恭の長男E氏宅訪問により重要な懸案事項の一つが解決したし、いくつかのことも新たに解った。その結果現時点では
(ア) 『校本宮澤賢治全集』の〔施肥表A〕〔一一〕〔一五〕〔一六〕は千葉恭に頼まれて宮澤賢治が設計した真城村の田圃に対する施肥表であると断言できそうである。
(イ) 〝千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間強を2人は下根子桜の別荘で寝食を共にしていた。〟という仮説は検証に耐えうるかも知れない。
(ウ) 賢治と千葉恭の間には、大正13年11月12日(水)に穀物検査所で出会ってから昭和3年の春頃までの約3年間(「下根子桜時代」はほぼ含まれる期間)の長期間に亘って親交が続いていたと言えそうだ。
(エ) 千葉恭は賢治と下根子桜で一緒に、それも8ヶ月ほどの長期間にわたって生活した唯一の人物である。昨今「独居自炊」と言われるようになってしまった「羅須地人協会時代」だが実はその約3分の1の期間は「独居」ではなかったと言えそうだ。千葉恭は賢治と長期間寝食を共にしていたのだから、身近にいて賢治の総体をつぶさに見知っていた貴重な人物であり、賢治の「下根子桜時代」の評価を左右する程の重要人物なのだということを世間に知らせなけらばならない。
と私は認識している。

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