宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§16. 松田甚次郎の下根子桜訪問

2011年10月05日 | 賢治と一緒に暮らした男
 さて、千葉恭のあの「暦日及び期間」は今だもって確定できないでいる。いくつかのアプローチを試み、その結果いくつかの点が明らかになったとはいっても肝心のこのことには殆ど近付けないでいる。

 残念ながら現時点でこの「暦日及び期間」に関してほぼ確かなことは
  大正15年7月25日前後千葉恭は下根子桜の宮澤家別荘に寄寓していた。
ということだけである。
 そこでもう一度千葉恭に関して現在までに手に入れることが出来た資料、以前列挙した
  【千葉恭関係文献等リスト】(1)~(10)
を読み直してみた。
 すると次のような事柄が書かれている2つの資料が目に留まった。
 その一つは 「宮澤先生を追つて(三)」であり、その中には次のようなことが書かれていた。
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。
           <『四次元7号』(昭和25年5月、宮沢賢治友の会)より>
 そして二つ目は 「羅須地人協会時代の賢治」であり、こちらには次のようなことが述べられている。
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。

         <『イーハトーヴォ復刊2』(昭和30年1月、宮沢賢治の会)より>
 これらはいずれも松田甚次郎に関わるものであり、松田甚次郎が賢治からどやされたといえばあの昭和2年3月8日の訪問(後述する)のまさしくあのシーンが連想される。
 これでちょっとだけだが再び明かりがほのかに見えてきた。これらの資料から
  千葉恭は下根子桜の宮澤家別荘寄寓中に賢治を訪れた松田甚次郎本人を見ている。
ということが言えそうだからだ。
 となれば、松田甚次郎が大正15年4月頃~昭和2年3月頃(松田甚次郎の盛岡高等農林農業別科在学期間)の間にいつ頃何回ほど下根子桜に賢治を訪ねたかが判ればあの「暦日及び期間」をある程度推測できそうな気がしてきた。

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