宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§27. ただ者じゃない千葉恭

2011年10月16日 | 賢治と一緒に暮らした男
 たまたま『四次元』123号(Feb-61、宮澤賢治研究会)を見ていたならば、その中に菊池忠二氏の「賢治の地質調査(1)岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」がシリーズ物の1回目として載っていた。
(1) 「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」の内容
 そしてそれは次のように始まっていた。
 編集者の言葉――本文は賢治が稗貫稗貫郡の委嘱を受け、関豊太郎博士を首班に助教授神野幾馬、小泉多三郎と共に実地踏査した際の報告書である。この調査図は五六年前元の郡後(役?、投稿者註)所の倉庫から発見されたものを、当時の稗貫地方事務所長に乞うて保存してゐる。今回計らずも菊池氏が岩手大学でそれを発見され、賢治の分担した部分を抜粋して送っていたゞいたものである。これに図表を参照されたなら完璧なものであることを信ずる。菊池氏の御厚意に深く感謝の意を現するものである。
 第一章 地形及地質
  第一節 地形の大要
本部ノ地勢ハ北上平地ヲ中央トシ其以東ハ東部丘陵及東部山地ニ区分シ其西部ニ於テハ西部丘陵及西部山地ニ区別ス、東部山地ハ北上山地ノ一部ニ属シ西部山地ハ陸羽ノ境界ヲ南北ニ走レル中央分水嶺ノ余波ニ属ス。
(一)東部山地
本郡東部ノ北境ハ早池峰(一九一三米)ヲ東端トシ次第ニ低降シツゝ西走シ権現山(八二八米)ニ達スル山脈連互シ、東境乃至東南境ニハ薬師岳(一六四五米)ヲ最高点トシ海抜千米以上ニ達スル数多ノ高峰ヲ有スル山脈南西ニ走ル、便宜上前者ヲ早池峰山脈ト謂ヒ後者ヲ薬師山脈ト呼フ、…(以下略)

          <『四次元』123号(Feb-61、宮澤賢治研究会)より>
 ということは、この報告書に関しては菊池氏が1961年(昭和36年)頃にたまたま発見し、その抜粋をこの『四次元』に掲載したということになろう。そして私はといえば、1918年(大正7年)宮澤賢治達が行った土性調査に関して、大正11年に発行された「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」はこの様にして書き出されているのだろうということを知った。
(2) 「宮沢先生を追つて(五)」と比べる
 私はそこで『あれっ』と思った、この内容はまさしく千葉恭が『四次元』の14号で書いている中味と殆ど同じではなかろうか、と。
 そこで、久し振りに千葉恭の「宮沢先生を追つて(五)」を見返してみた。次のようなことが書かれている。
 先生の肥料設計を語る前に、先生が調査した岩手縣稗貫郡地帯の地質及土性について書かねばならないと思ひます。稗貫の地勢は北上平地を中央として、其以東は東部丘陵及東部山地に区分し、其西部に於ては西部丘陵地帯及西部山地を区別し東部山地は北上山脈の一部に属し、西部山地は陸羽の境界を南北に走る中央分水嶺の余波に属してゐます。東部の北境に早池峰(一九一三米)を東端とし次第に低降しつゝ西走し、権現山(八二八米)に達する山脈連互し、東境及東南境には薬師岳(一六四五米)を最高点として、海抜千米以上に達する数多の高峰を有する山脈が南西に走つてゐます。便宜上前者を早池峰山脈といひ後者を薬師山脈と呼んでゐます。…(以下略)
       <『四次元14号』(昭和25年12月、宮沢賢治友の会)より>
よって後者は前者をカタカナ書きからひらが書きに直し、併せて多少平易に書き直しているだけで、基本的には両者は同じ内容である。
 ところがそれぞれの発行年に注意してみると
  前者『四次元』123号は昭和36年2月発行 
  後者『四次元』14号は昭和25年12月発行
である。前者は後者の11年後の発行であった。菊池氏がたまたま岩手大学で発見したのがほぼ昭和36年頃であることになると思うが、これよりもすでに11年も前に千葉恭はこの報告書を詳らかに知っていた、あるいはもしかするとこの賢治の「報告書」の写しを持っていたとも考えられる。
(3) 千葉恭はただ者じゃない
 実は「宮澤賢治を追ひて」で千葉恭は次のように語っている。
 先生と知り合つた時から先生を知る資料を與へられたのでしたが、火災により全部焼失してしまひました。
と。これは千葉恭の三男M氏から
 昭和20年のフェーン現象による久慈の大火で父千葉恭が賢治からもらった手紙などは燃えてしまったと言っていた。
こととも符合する。
 だから千葉恭が持っていたとすれば賢治のその「報告書」は、その被災後に苦労して手に入れていたものなのかも知れない。あるいは、千葉恭は下根子桜を辞して真城村の実家に戻って帰農した際に「研郷会」なるものを水沢農学校の同窓生と組織したが、その組織の運営に役立てるために何等かの方法で入手していたこの「報告書」は実家に置いてあったので焼失を免れたのかも知れない。
 いずれ菊池氏がこの「報告書」を発見する以前、11年も前に千葉恭は既にこの「報告書」の中味を知っていた。おそらく千葉恭はこの「報告書」の写しを当時所有していて、この「報告書」の内容を自分なりに深く研究しながら「研郷会」などにおいて農業に生かしていたに違いないなどと想像してしまう。かつての同僚千葉Kさんも『恭さんは研究好きだった』と証言していることでもあり。
 とまれ、「四次元」の123号を読んでみて、
  やはり千葉恭はただ者ではない。
そう感じたのである。
(4) 〝「水稲肥料設計」の様式〟について
 千葉恭が持っていたとも思われる資料「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」であるが、同様千葉恭が持っていたと思われる資料に「水稲肥料設計」がある。それは「宮澤賢治先生を追つて(四)」に載せている以下のような様式
《「水稲肥料設計」の様式》

         《〝『四次元』9號〟(宮沢賢治友の会)より》
のものであり、千葉恭は次のように説明を付している。
 羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究もする様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。肥料設計書の様式は次のやうな、先生独特のものであります。
と。
 さて、この様式の中には
 「大正   年度耕種要綱」
という文言があるから、おそらくこの〝「水稲肥料設計」の様式〟は大正末期に用いたタイプなのだろう。ただしこの〝「水稲肥料設計」の様式〟だが、『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)等には未だ掲載されていないのではなかろうか。一般に「羅須地人協会」と明記されている資料は多くないと思うが、この〝「水稲肥料設計」の様式〟にはそれが明記されているのに、である。とても気になる。

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