さて、松田甚次郎が賢治の許を訪問したことは昭和2年3月8日以外にもあったのかなかったのか、あったとすればそれはいつだったのかということをまずは探る必要があると覚ったので、そのことを次に試みた。
(1)『宮澤賢治研究』より
その関連で思い出したのがまず『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)である。同著の中で松田甚次郎は「宮澤先生と私」というタイトルで次のような追想を著していた。
盛岡高等農林学校在学中、農村に関する書籍を随分と読破したのであるが、なかなか合点が行かなかった。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協会の事が出て居つたのを読むで訪れることになったのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる様ななつかしい面持ちで早速二階に通された。
明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて来る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光って見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持参せられて、食事をすゝめられた。
かくして私共は、慈父に久し振りで会ふた様な、恩師と相語る様にして下さつたあの抱擁力のありなさる初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。
それから度々お訪ねする機を得たのであるが、先生はいつも笑つてにこにこして居られ、文化はありがたいものだ、此処に居てロシアの世界的なピアノの名曲を聴かれるとてロシアの名曲を聴かしてくだされたり、セロを御自ら奏して下さつたものである。…(中略)…
私が先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが、私が先生の教えを奉じて、最初に農民劇を演ずべくその脚本を持參して伺つたのであるが、非常に喜ばれて事細かく教示を賜り、特に篝火を加えて最高潮を明にして下さつたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年発行)>
この追想を読んでみて気になったことが3点ある。
その第一は、
初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである
の部分である。このときが松田甚次郎が賢治を下根子桜に訪ねた最初であると言っているからである。そしてその後何度か、それもしばしばそこを訪れたと受け取れる表現をしているからである。
その第二は、
先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが
のところである。松田甚次郎が賢治の許を訪ねた最後は昭和2年の8月であったと言っているからである。
その第三は、
先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて
と述べている点である。
これらの文章の内容から、松田甚次郎が最初に賢治の許を訪ねた際には午前中からそこを訪れていたことになろう。とすれば、この最初の訪問日は昭和2年の3月8日ではなさそうだ。なぜなら前述したように、3月8日の午前中は紫波郡の赤石村を慰問して午後に下根子桜を訪れたと言っているからであり、同日の午前中にはまだ甚次郎は花巻に着いていなかったからである。
(2)『宮澤賢治』(佐藤隆房著)より
さて、最初に訪れたのはいつだったのであろうか。
そこで次に思い出したのが『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)である。その中には「八二 師とその弟子」という節があり、次のようなことがあたかも見ていたかのように綴られている。
大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『私家版 宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年版)より>
と。
やった!これで分かったぞその日が、と私はほくそ笑んだ。松田甚次郎が初めて賢治を下根子桜に訪れた日は大正15年12月25日だったんだ。
しかしその喜びも束の間、何かおかしいぞという気がしてきた。たしかその頃賢治は滞京中ではなかったのか。ならばその頃の賢治の行動を『新校本 年譜』で確認してみよう。12月中に関しては次のようになっていた。
12月 1日 定期の集りが開催されたと見られる。
12月 2日 セロを持って上京(花巻駅にて沢里武治ひとり見送る)。
12月 3日 着京し神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席等。
12月15日 政次郎に書簡にて200円の送金を依頼。
12月20日 〃 重ねて200円の送金を依頼。
12月23日 〃 29日に帰郷すると知らす。
<『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
ここに12月29日に帰郷したとはっきりは書いていないがそれまでは滞京中であると思われる。恐れていたとおりだ。
はたして、事実はどっちだったんだろうか…。参ったな、どうすればいいのだろう。途方にくれそうになったときに突然思い出したのが『新庄ふるさと歴史センター』であった。
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(1)『宮澤賢治研究』より
その関連で思い出したのがまず『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)である。同著の中で松田甚次郎は「宮澤先生と私」というタイトルで次のような追想を著していた。
盛岡高等農林学校在学中、農村に関する書籍を随分と読破したのであるが、なかなか合点が行かなかった。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協会の事が出て居つたのを読むで訪れることになったのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる様ななつかしい面持ちで早速二階に通された。
明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて来る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光って見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持参せられて、食事をすゝめられた。
かくして私共は、慈父に久し振りで会ふた様な、恩師と相語る様にして下さつたあの抱擁力のありなさる初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。
それから度々お訪ねする機を得たのであるが、先生はいつも笑つてにこにこして居られ、文化はありがたいものだ、此処に居てロシアの世界的なピアノの名曲を聴かれるとてロシアの名曲を聴かしてくだされたり、セロを御自ら奏して下さつたものである。…(中略)…
私が先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが、私が先生の教えを奉じて、最初に農民劇を演ずべくその脚本を持參して伺つたのであるが、非常に喜ばれて事細かく教示を賜り、特に篝火を加えて最高潮を明にして下さつたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年発行)>
この追想を読んでみて気になったことが3点ある。
その第一は、
初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである
の部分である。このときが松田甚次郎が賢治を下根子桜に訪ねた最初であると言っているからである。そしてその後何度か、それもしばしばそこを訪れたと受け取れる表現をしているからである。
その第二は、
先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが
のところである。松田甚次郎が賢治の許を訪ねた最後は昭和2年の8月であったと言っているからである。
その第三は、
先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて
と述べている点である。
これらの文章の内容から、松田甚次郎が最初に賢治の許を訪ねた際には午前中からそこを訪れていたことになろう。とすれば、この最初の訪問日は昭和2年の3月8日ではなさそうだ。なぜなら前述したように、3月8日の午前中は紫波郡の赤石村を慰問して午後に下根子桜を訪れたと言っているからであり、同日の午前中にはまだ甚次郎は花巻に着いていなかったからである。
(2)『宮澤賢治』(佐藤隆房著)より
さて、最初に訪れたのはいつだったのであろうか。
そこで次に思い出したのが『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)である。その中には「八二 師とその弟子」という節があり、次のようなことがあたかも見ていたかのように綴られている。
大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『私家版 宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年版)より>
と。
やった!これで分かったぞその日が、と私はほくそ笑んだ。松田甚次郎が初めて賢治を下根子桜に訪れた日は大正15年12月25日だったんだ。
しかしその喜びも束の間、何かおかしいぞという気がしてきた。たしかその頃賢治は滞京中ではなかったのか。ならばその頃の賢治の行動を『新校本 年譜』で確認してみよう。12月中に関しては次のようになっていた。
12月 1日 定期の集りが開催されたと見られる。
12月 2日 セロを持って上京(花巻駅にて沢里武治ひとり見送る)。
12月 3日 着京し神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席等。
12月15日 政次郎に書簡にて200円の送金を依頼。
12月20日 〃 重ねて200円の送金を依頼。
12月23日 〃 29日に帰郷すると知らす。
<『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
ここに12月29日に帰郷したとはっきりは書いていないがそれまでは滞京中であると思われる。恐れていたとおりだ。
はたして、事実はどっちだったんだろうか…。参ったな、どうすればいいのだろう。途方にくれそうになったときに突然思い出したのが『新庄ふるさと歴史センター』であった。
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