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§24. 千葉恭の辞職・復職日等判明

 それにしてもどうしてなのだろうか、『新校本 宮沢賢治全集』(筑摩書房)の中にある賢治の年譜等をも含め、どんな本を見ても千葉恭が下根子桜の別荘で賢治と一緒に暮らしていた時期や期間は今だもってはっきりと記されていないようだ。
 それはそもそもこの期間や時期に関して賢治自身は一言も、そして千葉恭自身ははっきりと言っていないせいもあるのだろう。
(1) 千葉恭の言っていること
 ただし振り返ってみれば、千葉恭自身は次のようなことは言っている。
(ア) 『イーハトーヴォ』復刊2号において
 そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。
 その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり、今日そのままに同じ仕事をいたしております。

(イ) 『イーハトーヴォ』復刊5号(宮沢賢治の会)において
 (下根子桜では)賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
(ウ) 「宮澤先生を追って(二)」において
 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
と。
(2) 今までの推定 
 例えば(ア)で千葉恭が
 次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに(賢治から)『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。
と語っていることとか、千葉恭の三男M氏が
 父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と私に語ってくれたことなどから、千葉恭はあるとき穀物検査所勤めに見切りをつけ、下根子桜の別荘で賢治と一緒に暮らし始めたとであろうと推理していた。言い換えれば、千葉恭が穀物検査所を辞めた時期と下根子桜の別荘で賢治と一緒に暮らし始めた時期とはほぼ重なるであろうと考えてきた。それゆえ当面の最大の懸案事項は千葉恭はいつ穀物検査所を辞めたのかということであった。
 さりとて、(ウ)によれば千葉恭は〝昭和四年に役所(穀物検査所)を辞めて帰農し〟たことになるがそれを鵜呑みすることはできない。なぜなら(ア)によれば〝家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり〟ましたと語っているが、一方では千葉恭が昭和8年に復職していることは『岩手年鑑』の「県職員等の職員名簿」の記載から確認できるから、もし昭和4年に辞めたとなれば帰農期間は昭和4年~8年の足かけ5年間となり9年間とは矛盾するからである。
 一方、大正15年の7月25日に千葉恭は賢治に頼まれて白鳥省吾との面会を断りに行っているから、この時期には千葉恭はもう穀物検査所を辞めていて賢治と一緒に暮らしていたと考えるのは自然である。そしてこの時点から起算すれば昭和8年までの間が8年間であり、それを『九年間百姓しました』と言っていることは許容範囲であろう(昭和元年も1年と数え間違いすれば「9年間」はあり得るから)。それゆえ、〝「宮澤先生を追つて(三)」〟で述べたように
  千葉恭が穀物検査所を辞めたのは大正15年の夏の頃
といままでは推定していた。
 なお、一般に千葉恭は賢治と約半年一緒に暮らしたと言われているようだが、それはこの(イ)が拠り所になっているのだろう。私自身はもっと長い期間だあったでろうと思ってはいるが。
 と長々語ってはみたものの、肝心の千葉恭がいつ穀物検査所を辞めていつ復職したのかというそれらの日にちをはっきりと確定できないままにここに至ってしまった。
(3) 辞職・復職日確定
 ところがこの度ふとした切っ掛けであるルートから、千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ
 大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
 昭和 7年3月31日 〃 宮守派出所に正式に復職

というものであった。
 前述の推定は当たらずとも遠からずというところでちょっと肩すかしを食らった感じもするがそれほど悔やしくもなかった。今まで躍起になって探し廻ってきた日、千葉恭が穀物検査所を辞めた日がやっとのことで確定したわけだから。これで当面の最大の懸案事項が解決し、より自信を持って賢治が千葉恭と一緒に暮らし始めた時期を推定できそうな気がしたからだ。
(4) 「賢治と千葉恭の同居期間」の仮説
 さて肝心の、千葉恭はいつからいつまで賢治と一緒に暮らしていたかである。つまり、賢治が下根子桜で『独居』でなかった期間はいつからいつまでかである。
 一般にお役所の人事の発令の期日は?きり?の良いところ、月初めとか月末が多いはずである。なのに千葉恭が一旦役所を辞めた日にちは中途半端な22日であることから、これは上司との折り合いが悪くなって突如辞表を出したと解釈できる本人の話
 夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。
と符合する。となれば、急に思い立っての辞職ということだろうから、千葉恭の三男M氏の言うとおり
 父(千葉恭)は賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
というのが実情だったとも十分考えられる(ただし千葉恭自身は『「君もこないか」という誘いが参り』とは言っているのだが)。よって、千葉恭は大正15年6月22日に穀物検査所花巻出張所を辞め、その直後から下根子桜の宮澤家の別荘に寄寓することになったと考えても良さそうだ。
 また以前触れたように、千葉恭は『松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた』と証言しているから、これが事実であるならば千葉恭は下根子桜で松田甚次郎を直に見ていることになる。そして一方、松田甚次郎が盛岡高等農林時代に宮澤家の別荘を訪ねたのは大正15年度は3月8日の一度しかないことも確認できている。よって、松田甚次郎が賢治の許を訪れた3月8日に千葉恭が下根子桜の別荘に寄寓していたという可能性が大となるから、千葉恭はこの頃(昭和2年3月8日前後)もまだ賢治と一緒に暮らしていたということが十分に考えられる。
 すると前掲の(イ)の「約半年生活をともにした」の約半年間は、実は6月末から明けて翌年の3月までの8ヶ月間強はあると見ても良さそうである。なおこのことは7月25日に千葉恭が賢治の代わりに白鳥省吾に断りに行ったこととももちろん矛盾しない。
 そこで今まで述べてきた事柄から、「賢治と千葉恭の同居期間」について次のような
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間強を2人は下根子桜の別荘で一緒に生活していた。
という仮説が十分立てられそうなので、今後はこの仮説を検証してゆくことにしたいい。
(5) 昭和8年の千葉恭の勤務先
 そして、このときもう一つ嬉しいことがあった。
 以前触れたように、『岩手年鑑』(岩手日報社)によれば
 昭和8年の千葉恭の勤務場所は二戸郡福岡出張所(9月末時点)
である。一方、これも以前触れたことだが千葉恭の三男M氏から
 賢治が亡くなった昭和8年当時父(千葉恭)は宮守で勤めており、賢治が亡くなったという連絡があったが弔問に行けなかったと言っていた。
ということを教えてもらっていた。
 しかしこれでは両者は辻褄が合わない。両者が共に正しければ千葉恭は宮守出張所にも勤めながら福岡出張所にも勤めていたことになる。ところが宮守と二戸郡の福岡間は直線距離でさえも約100㎞はある。当時もそして今も列車通勤はほぼ無理だろうし、自家用車でさえも通勤はほぼ無理な距離であり、まして自家用車通勤など考えられない昭和8年当時に両方の出張所を兼務はできないはず。一体昭和8年の千葉恭はどんな風にして勤務していたのだろうか、という疑問があった。
 それがこの度あるルートを通じて千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた年月日、そして正式に復職した年月日等がやっと判明した訳だが、併せて、穀物検査所を辞めた後も時々臨時ではあるが穀物検査所で働いていたことも判った。例えば
 昭和3年1月24日~3月31日 藤根派出所臨時採用
のように。ということは、農繁期は実家で農業に従事しながら「研郷會」を拠り所として地元の農業の改善と発展のために活動し、農閑期には元の役所で臨時職員として働いていたということになろう。
 さらには、千葉恭は昭和7年3月31日付けで正式に穀物検査所(宮守派出所)に復職した後、
 昭和8年7月31日~二戸郡福岡出張所勤務
 昭和8年8月24日~宮守派出所勤務

という人事異動があったということも今回判明した。これが判明したことがとても嬉しいことだった。昭和8年の千葉恭の勤務先に関する疑問がすっきりと解決したからだ。たしかに賢治が亡くなった昭和8年9月に千葉恭は宮守で勤めていた。三男M氏の証言どおり賢治が亡くなった当時は千葉恭は宮守勤務だったのだ。これで辻褄があった。岩手日報のこの記述は正しくなかったのである。
(6) 最後に
 今回あるルートから千葉恭の職歴の一部を100%の保証付きで教えてもらったわけだが、教えてくれた方にはいくら感謝ても感謝しきれない。もちろん、私はふとした切っ掛けでそれが達成できたことで今までの長い間の胸のつかえがあっけなく下りてしまった。

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