宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

356 「大島行き」の理由は?

2011年06月12日 | 下根子桜時代
                  《↑『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)》

 では今回は昭和3年4月~6月までの年譜を見てみよう。
4月?  黒沢尻女学校校長新井正市郎を訪ねる。
5月 7日 前校長畠山栄一郎来花精養軒で歓迎会
5月16日 堀籠文之進を訪ねる。
5月18日 堀籠文之進を訪ねて稲苗腐敗病について話しあう。
6月 7日~ 仙台、水戸、東京、大島への旅行に出る。浮世絵や演劇鑑賞(6月24日帰花)
6月 8日 水戸偕楽園、試験場、上野へ
6月12日? 大島行き
6月14日? 大島発
6月17日? 築地小劇場へ
6月24日 帰花


 この期間の大きな出来事はもちろん「大島行き」だと思う。なぜこんな時期、いわゆる農繁期に宮澤賢治は大島まで行ったのだろうか、直感的に変と思ってしまった。なにもわざわざこの農繁期に賢治とあろう者が古里を離れなくてもいいのに…と。
 
 そこで少しく調べてみると、まず気になるのが前回もそうは感じていたのだが昭和3年に入ってから詩の創作が余りなされていないのではなかろうかということである。
 因みに『校本』の年譜から拾ってみると、昭和3年1月~5月の間に詠まれた詩は何と
4月12日<台地>
しかないのではなかろうか。

 それでは、この期間には童話を創作したりその手入れをしていたのであろうか。そこで『宮沢賢治必携』の中の「賢治童話辞典」に記されている執筆時期から該当するものを拾い出そうと思ったのだが、全く拾い出せなかった。そしてそもそもこの辞典によれば昭和2年~5年に執筆された童話もなさそうだ。

 ならばと、『校本宮澤賢治全集第十三巻』でその期間に書かれた書簡を拾ってみると該当するものは
・〔春頃〕高橋慶吾あて
・5月20日付 大橋珍太郎あて

の2通しか(明らかにされてい)ない。

 はてさて一体この期間宮澤賢治は何に己の情熱を燃やしていたのだろうか。年譜から推測すれば、当時賢治が主にやっていた賢治らしいことはせいぜい肥料相談くらいでしかなかったのではなかろうか。少なくともこの当時は、農学校を辞めて下根子桜に住み始めた頃のあの昂揚した賢治ではなくなっていたような気がする。
 近隣の農民の生活向上や幸福を願って下根子桜に移り来て、己の農芸化学の知識等を生かして近隣の農民に稲作指導をしたりして約2年が過ぎ去ろうとしているのに、何をやっても上手く行かないと賢治は思い悩み、かなり落ち込んででもいていたのだろうか。そのことがいたたまれなくてそこから逃げ出したかったのでもあろうか(まさかとは思うがもしかすると原因はそこにあり?)。そしてそのことが、賢治をして「大島行き」をなさしめたのだろうか。6月頃といえば稲作農家にとってはすこぶる大切な時期であり、そのような時期に賢治が花巻を2週間以上も留守にするなんて普通はあり得ないと私は思うからである。

 では次回はその大島行きに関して調べてみたい。
 続き
 ””のTOPへ移る。
 前の
 ””のTOPに戻る
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。
目次”へ移動する。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿