宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

345 名須川の論文「宮沢賢治の活動と歴史的背景」

2011年06月01日 | Weblog
                      《↑『賢治研究 20』(宮沢賢治研究会)》

 名須川溢男の「賢治と労農党」を探しているうちに同氏の「宮沢賢治の活動と歴史的背景」という小論文も見つかったので、今回はその中から報告したい。

1.大正14年頃の歴史的背景
 その中には次のよう章がある。
  一、花巻農学校の教師を辞職して羅須地人協会活動に入った歴史的背景
 花巻農学校の隣にあった花巻高等女学校は、北山キヨ氏の言葉によっても当時大正末期は「……授業は自由で活気がありました…校内はどんどん自由主義的に改革されました。弁論大会、学生会のグループ、校友活動など自由でのびのびして活発でした。」というように大正デモクラシーの空気にみちていた。
 花巻農学校もまた大正期自由主義リベラルなデモクラシーの空気の中にあった。花巻農学校「生徒教養の方針」は「農業経営ニ必要ナル知識、技能ヲ授ケ、特に徳育ト人格ノ陶冶ニ重キヲ置キ、以テ農村ノ中堅人物ヲ養成セントス」と。「花農六十周年記念誌」によると「…初代の畠山校長は、天真らんまんな性格で、自由闊達、実に明朗であったから、教師がなにをやろうが、めったなことでは文句をつけなかった。次第に校内には、自由な空気が漲り、教師はのびのびと思う存分の教育や研究活動を行うことができた。…(投稿者略)…」
 このような自由主義教育とも言える花巻農学校であったからこそ賢治の個性的な伸び伸びした教育が行われたのであった。
 しかしこのような学校教育がしだいに抑圧されるようになる。それらの歴史的背景を上げてみよう。
 (1) 校長が中野氏となり、画一的統制、管理が強まってきたこと。
 (2) 大正十二年「国民精神作興ニ関スル勅書」発布、大正十三年終身授業の教材利用統制、文部大臣の学校劇禁止令等による教育統制。
 (3) 大正十四年の花巻農学校に設置された国民高等学校は、官制的な統制的国粋主義で賢治の考える農民教育ができなかったこと。
 (4) …(投稿者略)…
 (5) 賢治はすでに地域の農民や青年、労働者や労農党、社会主義者と交流学習したり、支援したり、活動していたのである。賢治は「地主小作関係」を見失ったとか「看過した」と言われているが、彼は彼なりに活動したのであった。

     <「宮沢賢治の活動と歴史的背景」(名須川溢男著、『賢治研究 20』(宮沢賢治研究会))>
 名須川が語るここまでの彼自身の認識は、私もそういう歴史的背景だったんだろうなと納得。ここ花巻にも大正デモクラシーの波、すなわち民主主義的・自由主義的傾向を要求する思想や運動がひたひた押し寄せて来ていたということなのであろう。それは花巻農学校においても例外ではなく、そのような波の中にあったので賢治はのびのびと授業などの教育活動が出来た。だが、校長が畠山から中野に変わった途端にその波はあっけなく引き去ってしまったということもその通りだと思う。
 ただし、このタイトルの中の〝羅須地人協会活動に入った歴史的背景〟という観点からは私の管見のためか説得力はあまり感じられなかった。つまり、賢治が花巻農学校を辞めざるを得なかった歴史的背景はこの名須川の説明で説得出来るが、なぜ他の活動ではなくて「羅須地人協会」の活動に入ったのかという歴史的背景としては今一つ納得出来なかったからである。

2.昭和2年からの歴史的背景 
 さて、名須川は引き続いて次のように論を展開している。
 二、一九二七年(昭和二年)からの歴史的背景と賢治の活動
 昭和二年二月一日「岩手日報」紙の記事つまり「農村文化の創造に努む、花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立返る」との標題による賢治の羅須地人協会紹介が、がぜん物議をかもし、当時うるさくなった労働運動、農民運動や社会主義運動取り締まりの対象にされたのであった。…(略)…重要なことは賢治の著作物に書かれていないから彼が社会運動や「地主小作関係」を知らなかったとか、やらなかった、目をつぶったなどと言っては真の賢治を理解していないということである。厳しい弾圧下にあって、真剣に生きようとする者がどのような行動をしたかは、歴史的背景から深く考えなければその限界状況を納得できないであろう。
 昭和二年三月の作品一〇一六番「黒つちからたつ/あたたかな春の湯気が…きみたちがみんな労農党になってから/それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ……」や「新しい時代のコペルニクス……新たな時代のマルクスよ……新しい時代のダーウインよ……」と若人に呼びかけている詩「生徒諸君に寄せる」などの意味する賢治の活動がなぜ抑圧されてしまったのか、その歴史的背景が重要なのである。
  …(略)…
 賢治が労農党に関係している花巻の最重要人物であったことは官憲側が熟知していた。羅須地人協会と労農党稗和支部事務所は一体のものであった。賢治がのうそんをまわりあるき、農民の信望が誰よりも厚いことに恐れを抱いているのは他ならぬ官憲であった。よもや地主小作問題などを声高く呼ぶことはできまい。警察から訊問され調書を取られて協会の活動は禁止、弾圧されたのであった。

     <「宮沢賢治の活動と歴史的背景」(名須川溢男著、『賢治研究 20』(宮沢賢治研究会))>

 名須川氏の主張するとおり、賢治を理解するためには歴史的背景は深く考えねばならぬことは当然だが、私は深く考えていないためかこれらの賢治の一連の行動や対応の仕方に対する強力な説得力をこの論文は持っているとは受け止められずにいる。

3.理解に苦しむ賢治の対応
 たしかに、2月1日を境にして賢治は楽団を解散したようだからこの新聞報道は賢治にとっては痛手であったであろう。しかし、解散した理由が「羅須地人協会」の活動が当時やかましかった「思想問題」化することを懼れたのだとすれば、楽団は解散したがその後しばらく「農民講座」を継続しているし、その後も「羅須地人協会」への入会者はあったのだから、いまひとつ賢治の行動や判断の仕方は理解に苦しむところである。

 翻って、もし2/1付けの記事が〝がぜん物議をかもした〟のだとすれば、賢治のその日までの活動が思想上の問題があったということになるはず。
 しかし、賢治は前年12月1日から実質的に「羅須地人協会」の「農民講座」を始めてはいるが、その翌日12/2から年末までは花巻不在。また、この12/2時点では約3ヶ月は滞京すると言っていたはず。それほど賢治は当時「羅須地人協会」の活動に熱心だったとは思えない。
 ならば、形式上「羅須地人協会」が発足した大正15年の8月以降の賢治の活動に鑑みた場合、少なくとも「思想問題」で官憲から目をつけられていた活動は年譜からは見出せないのではなかろうか。せいぜい、近隣の若者を集めて行っている楽団活動がその対象になりえたかもしれないが、それはとても「思想問題」の範疇には入らないと思う。
 したがって、大正15年の賢治の下根子桜における活動振りからは「思想問題」化したものがあったとは思えない(それとも、私たちが知らない「思想問題」化しそうな別の活動が大正15年に行われていたのであろうか)。

 一方、明けて昭和2年1月から行っ「羅須地人協会」の活動としては年譜に依れば
1月10日 羅須地人協会講義。農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱 上
となる。
 「羅須地人協会」が「思想問題」化するのを懼れて楽団を解散したということのようだが、もし「思想問題」化するのならばこちらの「羅須地人協会講義」の方が「思想上問題あり」と官憲側は注視するはずである。
 したがって、賢治が「思想問題」化することを懼れたとするならば、2月1日以降中止すべき活動はまずもってこの「羅須地人協会講義」であり、楽団の解散ではないはずであると私は考えたくなるのである。
 しかるに、年譜等に従うならば、賢治がまずもって止めたことは楽団の活動であり、「羅須地人協会講義」ではなかった。それがなぜかを、歴史的背景を元にして名須川から教えてもらいたかった。

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