宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

344 名須川溢男の論文「賢治と労農党」

2011年05月31日 | Weblog
            《↑『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)》

 やっと名須川溢男の論文「賢治と労農党」を見ることが出来た。それは『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』の中にあった。

1.賢治は労農党のシンパ以上の存在
 まずはこの論文の中の〝四 労農党と羅須地人協会〟を引用させてもらう。それは次のような中味である。
   四 労農党と羅須地人協会
 労農党稗和支部は大正一五年十二月一日、花巻町花巻座において、三十余名で結成された。軽便鉄道、製糸工場工員、時代に不満をいだく若者たち、農民、教員などであった。地人協会で肥料設計をたのむ貧農などももちろん党支部事務所に出入りしたわけである。こんなことが、ところが不思議にいままで明らかにされていなかった。
○労農党支部事務所について――「もっと便利な広い場所のしやすいところを賢治にたのんだ、屋賃などもだしてくれた。そして宮右(賢治の本家)の長屋をかりることになった」(高橋慶吾談 S45・3・1採録)
 「賢治さんは……中心になってくれた人だった……おもてにでないで私たちを精神的、経済的に励ましてくれた」(照井克二談 S45・6・16採録)
などと当時の党員や支持者は秘かに語るのである。
○労農党稗和支部役員――支部長泉国三郎、執行委員萱栄三郎…(投稿者略)…伊藤文治(以上和賀郡)その他煤孫利吉、照井克二、高橋慶吾など
○労農党盛岡支部役員――支部長森田政次郎、執行委員小館長右衛門、…(投稿者略)
○小館長右衛門が語る――「私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
 八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
○労農党事務所の机、椅子など――「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」(伊藤秀治=伊藤椅子張所 S45・2・23採録)
…(投稿者略)…
 さらに、高橋末治(花巻市堰他、明治三十年生)は「組内の人六人宮沢先生に行き地人会を始メたり我等も会員と相成る。」(昭和二年二月四日)と日記につけている。このように賢治は、実践運動にとりくんでいたのである。日本の帝国主義、全体主義体制、その侵略戦争がはじまらんとしていたとき、賢治の尽力により羅須地人協会と労農党稗和支部は活動していた。しかし全体主義体制側の政治権力は、この両者の活動に恐怖し、警察権(特高)による特別監視や事情聴取などをおこない、弾圧してきたのであった。社会主義とは関係ないとか、地主小作制度の矛盾には目を向けなかったなどと言う人びともいるが、賢治のほんとうの営為活動を知らなければならぬ。

     <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)より>

 ここまで見てきて、〝『年表作家読本 宮沢賢治』〟で山内修氏が書いている事柄
(ア) 労農党支部事務所としてもっと便利で広いところを賢治に頼んだならば、宮沢長屋を借りることができ、家賃も賢治が払った。(高橋慶吾)
(イ) 賢治は表に出ないで精神的、経済的に支えた。(照井克二)
(ウ) 賢治は同事務所の保証人になり、八重樫賢師を通じてその運営費を支援した。また演説会などで激励のカンパをした。実質的な中心人物だった。(小館長右衛門)
(エ) 昭和3年2月初め、謄写版一式と『これタスにしてけろ』と言って20円のカンパを同事務所に置いていったと聞く。(煤孫利吉)
などはこの〝四 労農党と羅須地人協会〟に確かにあることが判った。ただし、最後の項目(エ)だけはいまのところ見当たらないが、おそらくそれもこの論文の後の方に出てくるのだろう。
 一方、山内氏の方になくてこちらにあるのが
(オ) 賢治は羅須地人協会の机やテーブル、椅子などを同事務所宮沢賢治に貸したと聞いている。(伊藤秀治) 
である。

 さて、とりあえずここまでこの論文を見てきて思うことは、名須川溢男は採録した人物も、その期日も明らかにしているし、複数の人間が同様な証言をしているということからこの論文の中に綴られているこれらの証言はかなり信頼度が高いものとなろう。
 したがって、ここまでの証言などから
 労農党員側から見れば賢治は労農党稗和支部の実質的な中心人物だったと思う人がいるほどの、宮澤賢治は労農党の強力な支持者であった。
と言えるのではなかろうか。

 ついつい〝労農党と賢治〟を投稿した時点においては、『宮澤賢治は労農党の熱心なシンパではあったが、はたして賢治が〝実質的な中心人物だった〟のか否なのか』と半信半疑だったが、こうなると
  賢治は労農党稗和支部のシンパ以上の存在であった。
と結論せざるを得なくなってきた。 

2.謄写版の寄贈と20円のカンパ
 この論文の中には〝六 賢治を孤立させ、挫折させたもの〟という次のような章もある。 
  六 賢治を孤立させ、挫折させたもの
 日本帝国主義、ファシズム体制、その侵略戦争という現実こそは、賢治の活動を人民大衆からから孤立させ、挫折させた。そこのところをよくつかまなければ、ほんとうの賢治を理解できない。昭和三年二月二十日の第一回普通選挙で、労農党は他地域に比較してかなり得票をかくとくした。
○ 「第一回普選は昭和三(一九二八)年二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしょうふ(のり)を入れてハケを持って『泉国三郎』と新聞紙に大書きしたビラを街にはりに歩いたものだった。事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった。『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっとおいていったものだ、と聞いた……。」(花巻市御田屋町、煤孫利吉談 S42・8・8採録)
 …(略)…
 肥料設計所も昭和三年三月で、羅須地人協会の活動とともに、やめなければならなくなった。人民大衆との結合を切られ、孤立させられ、絶望的な深淵におとされていった。…(略)…まさにあらゆる手段や機関によって、全体主義(ファシズム)侵略戦争の体制がつくられていった。それとともに賢治は、社会的な実践運動からしだいに離れ、挫折させられてしまった。「何妙法蓮華経と唱えることは」「……私の肥料設計よりは何億倍たしかです。……」(S5・1・26書簡)となり、侵略戦争(満州事変)に「既に熱河錦洲の民が皇化を讃えて生活の堵に安んじてゐる」(S8・8・30、書簡)という観方しかできない状況のなかで、「雨ニモマケズ……」と書かれたものが、全体主義にふさわしい賢治像として定着し、根強く残っている。現代の一人ひとりの生き方そのものが、自己の賢治像をつくるのである。

    <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)より>

 というわけで、〝『年表作家読本 宮沢賢治』〟で山内修氏が書いている事柄の最後
(エ) 昭和3年2月初め、謄写版一式と『これタスにしてけろ』と言って20円のカンパを置いていったと聞く。(煤孫利吉)
についてもこの論文に述べられていた。

 したがって、〝論文「賢治と労農党」〟からは
(ア) 労農党稗和支部事務所としてもっと便利で広い場所をと賢治に頼んだならば、宮沢長屋を借りることができたし、その家賃は賢治が払った。
(イ) 賢治は表に出ない形で労農党稗和支部を精神的、経済的に支えた。
(ウ) 賢治は同支部事務所の保証人になり、八重樫賢師を通じてその運営費を支援した。また演説会などで激励のカンパをした。同支部の実質的な中心人物だった。
(エ) 昭和3年2月初め謄写版一式を同支部に寄贈した。また『これタスにしてけろ』と言って20円のカンパを置いていったようだ。
ということが言えるし、次のこと
(オ) 賢治は羅須地人協会の机やテーブル、椅子などを同事務所に貸したと聞いている。(伊藤秀治)
も言えそうだ。
 なお、この(ア)~(オ)は賢治と労農運動〟における(1)~(6)とも、また〝森荘已池の証言〟の(a)~(c)とも大きな矛盾はない。

 したがって、これらのことを総合すると次のような事柄
(あ) 労農党稗和支部事務所としてもっと便利で広い場所をと賢治に頼んだならば宮沢長屋を借りて、また貸ししてくれた。
(い) 賢治は同支部事務所の保証人になり、八重樫賢師を通じてその運営費を支援した。また演説会などで激励のカンパをした。同支部の実質的な中心人物だった。
(う) 賢治は表に出ない形で同支部を精神的、経済的に支えた。
(え) 昭和3年2月初め、謄写版一式を同支部に寄贈した。また『これタスにしてけろ』と言って20円のカンパを置いていった。
(お) 賢治は羅須地人協会から同事務所に机、テーブル、椅子を運んで来て貸した。
(か) 昭和2年の夏から秋にかけて川村からレーニンの著作の解説を受けた。
(き) レーニンの思想は日本には適さない断定し、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
(く) 農民は底に叛逆思想をもっていて救いがたいと当時思っていた。
(け) 農民が一番困ることに手助けしてやらねならぬと賢治は当時思っていた。
はほぼ事実であったと言えるのではなかろうか。

3.羅須地人協会の机と椅子
 そしてこれらのことがもし正しければ、あれっ変?と思ったのが項目(お)である。
 そもそもこの項目(お)は、名須川の論文「賢治と労農党」の中の伊藤秀治の次の証言
○労農党事務所の机、椅子など――「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」(伊藤秀治=伊藤椅子張所 S45・2・23採録)
     <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)より>
に依るものだ。
 つまり、伊藤秀治の証言は
・羅須地人協会で使っていた机、テーブル、椅子を賢治は稗和労農党支部事務所に貸した。
・同事務所解散後はこれらを花巻町役場に売却した。
という二つのことを意味している。

 したがってこれらが事実であったとするならば、後者からはこれらの机、テーブル、椅子は役場で使うに足るものであり、高橋慶吾が『高く買ってくれ』と言うくらいだからそんなにみすぼらしいものではなかったはずだし、前者からこれらは羅須地人協会で使っていたものであるということが言える。

 とすれば、その椅子は羅須地人協会(賢治先生の家)の教室の中にあるようなみすぼらしい丸椅子

        <『「賢治先生の家」の教室』(平成20年12月12日撮影)>
ではなかったのではなかろうか。またこの教室には机もテーブルもないが、実は羅須地人協会の教室には当時結構立派な机もテーブルも椅子も備えてあったと考えるのが妥当ではなかろうか。このことが私は気になったのである。
 
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