宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

346 あまりにも気の毒な高瀬露

2011年06月02日 | 下根子桜時代
                      《↑ 「雨ニモマケズ手帳」29p~30p》
       <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>

 さて、昭和2年の8月以降のその年内の年譜を再度見てみると
8月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
       夏頃から〔推定〕高瀬露しばしば来訪。
10月頃  石田興平を宮澤家から花巻病院へ案内、下根子桜にも案内。
11月   藤原嘉藤治と小野キコの結婚式参列。
11月1日~3日 東北菊花展出品、審査、菊の句の短冊を書き入賞者に与える。

となっている。

 既に松田甚次郎に関してまでの報告を終えているのでそれ以降のこと、今回は
  〝夏頃から〔推定〕高瀬露しばしば来訪。〟
について調べてみたい。
 『年表作家読本 宮沢賢治』には次のように述べられている。
 この夏(推定)頃から、協会の近くに住む女性で小学校の教員をしていた高瀬露が、しばしば賢治を訪れるようになった。後に賢治は高瀬にあてた手紙の下書き(昭和四年末)で「あなたが根子へ二度目においでなったとき私が「もし私がいまの条件で身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかもしれないけれども」と申しあげたのが重々私の無考でした」と書いている。賢治自身、後に「雨ニモマケズ手帳」に「聖女のさまして近づけるもの」と書いたり、周囲の語るエピソードでも高瀬の一方的な恋心として悪く伝えられているが、必ずしもそうとばかりいえないようである。またこの話はかなり知れわたっていたらしく、昭和七年の手紙でも問い合わせに対して「旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみにて」と弁解している。
        <『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
とある。

 たしかに、賢治の周囲の多くの人は高瀬露を悪女扱しているようだ。しかし、前述のように賢治が
 もし私がいまの条件で身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかもしれないけれども
と高瀬に話したのであれば、賢治は取り返しのつかないことを言ってしまったいわざるを得ないのではなかろか。後々『重々私の無考でした』と詫びたとしても、言葉は拾うことが出来ない。高瀬に対して賢治は極めて軽率な発言をしてしまったと言われても仕方がないような気がする。

 さらには、昭和四年末の手紙の下書きにこのように書いているのだから賢治は高瀬に素直に詫びているのかと思えば、さにあらず。感情を顕わにして高瀬を恨みがましく思いつつ詠み込んでいると思われる詩がこのブログの先頭のように、「雨ニモマケズ手帳」の29p~30pにしたためられている。
 因みにそれは
10.24
   聖女のさましてちかづけるもの
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   乞ひて弟子の礼とれる
   いま名の故に足をもて
   われに土をば送るとも

と詠まれている。あの賢治がかくの如く〝聖女のさまして〟と修辞しているのを見て私は目を疑った。
 まして、この「雨ニモマケズ手帳」にこの詩『聖女のさまして…』が10月24日に書かれていて、それから殆ど時を置かない約10日後の11月3日にあの『雨ニモマケズ…』が書かれているということを考えれば、この両日の賢治の心の内の隔たりに呆然としてしまう。わけても賢治は29pには念入りに◎印さえも付けていればなおさらに。
 また、「雨ニモマケズ手帳」は昭和6年に書かれているはずだから、下書きを書いた昭和4年末の賢治と〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだ昭和6年の賢治とでは露に対する心理状態は全く逆の感じがする。どちらが露に対してほんとうの賢治なのか、それともどちらもほんとうの賢治なのか
 またこうなると、はたして実際に賢治が高瀬に同じ様な内容の手紙を出したか否かも問題となろう。もしかすると前述の下書きは下書きとして書いただけであって、実際には賢治は高瀬にこのような内容の手紙を出していなかったかも知れない。

 いずれ、高瀬が悪女とされていて賢治の方は一方的被害者だったという巷間流布されている捉え方は、少なくともアンフェアなのではなかろうかと私は思うようになってしまった。いまのままではあまりにも高瀬露は気の毒である。まるで〝ストーカー〟の如き扱いをされているからである。
 
 そこで、澤村修治の著『宮沢賢治と幻の恋人』を基に高瀬露がどのような人だったかを少し調べてみた。
 同著から主だった事柄を箇条書きにしてリストアップしてみれば以下の通り。
(1) 高瀬露は明治34年12月29日生まれ、賢治より5歳年下である。
(2) 露は当時湯口村の宝閑小学校訓導(正規の職員)であった。
(3) 露は下根子桜の別荘の近く(向小路)に住んでいた。
(4) 露と高橋慶吾は花巻バプテスト教会に共に通っていた。 
(5) 高橋慶吾は少年時よりクリスチャン。
(6) 慶吾の紹介で露は下根子桜の別荘来訪。その後足繁く通う。
(7) 宮沢清六によると、白系ロシア人のパン屋がきたとき、レコードを聞かせるために協会に連れたいったら、先に露がきていたという。賢治、露、清六、ロシア人の四人でリムスキー・コルサコフやチャイコフスキーを聞いたら、ロシア人は「おお、国の人」と感激した。そのあと露がオルガンを弾き、ロシア人は賛美歌を歌った。兄弟は聞き入ったという。露は小学校の先生だし、クリスチャンとして花巻バプテスト教会に通っていたこともあったので、オルガンは得意であった。
(8) 賢治は露に布団を贈った。
<参考>彼は女人に、布団を何かの返礼にやったことがあった。その布団が彼女の希望と意志とを決定的なものにしたのかも知れなかった。
     <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
(9) 昭和2年6月9日付高橋慶吾宛て葉書
<参考>高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイ丶オ婆サンナンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 露
      <『「雨ニモマケズ」新考』(小倉豊文著、東京創元社)より>
(10)高橋慶吾によれば、この後も露が女一人で来ることは度々あった。
(11)一方、賢治は露を避けだした。
(12)例の「カレーライス事件」発生。
(13)賢治は露に対して『私はレプラです』と嘘をつく。
 以下略。
     <『宮沢賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)より>

もしこういうことこであったならば、露だけが悪女扱いされる理由はやはりないと思う。まして、ストーカー〟扱いするのは露に対してあまりにも失礼なことではなかろうか。

 なぜなら、(7)や(9)からは賢治が露を受け入れていたということが言えるし、まして、(8)が事実であったならば賢治は取り返しのつかないことをしてしまったと言えるのではなかろうか。よりによってこんなものを露に贈るとはあまりにも罪作りな賢治である。
 また賢治が露に対して(13)のように『私はレプラです』と嘘をついたというのであれば、余程賢治は切羽詰まっていたということなのかもしれないがあまりにも稚拙な対応だと私は思う。そもそもハンセン病患者に対してとても失礼な話である。

 賢治のいいところは勿論計り知れないほど沢山ある。しかし、賢治にもこのような厭な部分もある、それも賢治なのだと認めてこそ私は少しずつ賢治に近づける気がする。

 また、周囲の多くの人々がそのような賢治をあまり責めもせずに露だけを悪女扱いし、結果的に『露悪女伝説』まで流布させてしまっている現状ははたして如何なものだろうか。
 高瀬露があまりにも気の毒すぎるのではなかろうか。

 続き
 ””のTOPへ移る。
 前の
 ””のTOPに戻る
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。
目次”へ移動する。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿