宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

343 賢治と労農運動

2011年05月30日 | Weblog
         《↑『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)》

1.何か変
 ここまで賢治の下根子桜での生活を調べてきて思うことは、
  下根子桜の昭和2年は何か変だ
ということである。

 再度、昭和2年の年譜を見直してみたい。
<1927年(昭和2年)>
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵、中野新佐久来訪。
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義開始。農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日  〃 土壌学要綱
1月30日  〃 植物生理学要綱 上
2月 1日 2/1付け岩手日報に『農村文化の創造に努む』という記事掲載。
2月10日 羅須地人協会講義 植物生理学要綱 下
2月18日 岩手日報記事に2/1付けの記事を受けて「農村文化について」という投書あり。
2月20日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 上
2月28日    〃       〃        下
3月 4日 湯口村の高橋末治ら6人、地人協会へ入会。
3月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
3月20日 羅須地人協会講義 「エスペラント」「地人芸術概論」
春頃   労農党稗貫支部事務所として宮沢右八の長屋を借り受けてやる。
春頃(3月頃?) 花巻警察署刑事の事情聴取を受ける。
4月30日 藤原嘉藤治に菊池清松を紹介。
5月末頃 花巻温泉南斜花壇に花の苗を植える。
6月末頃 小原忠来訪。『警察に引っぱられるかもしれない』と語る。
6月末  肥料設計2,000枚を超える。
7月中旬 盛岡測候所で記録を調べて、指導した農家に対して天候不順の対策を講じる。
8月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。


 3月までならいざ知らず、それ以降のここにある事柄からは今まで抱いていた宮澤賢治のイメージは浮かんでこない。一体賢治はこの時期ここに書かれていないこととして何をしていたのだろうか。

 もちろん賢治はこの時期詩を詠み、畑を耕し、稲作指導をし、肥料相談にのってやってはいたであろう。
 しかし、そこからは
・『新しき農村の建設に努力する』という賢治の意気込みも気負いも、
・『おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか』と高らかに謳い上げた高揚感
もともに見えては来ない。
 この程度の実践に過ぎないのであれば、「菩薩行」を実践しようとしていたであろう賢治としては到底ふさわしくないと思う。〝われら〟と近隣の農民に呼びかけ、その農民たちと一緒になって新しい農村を建設しようしていたはずなのに、とてもこの年譜からはそのような賢治像は見えてこない。

 ただし、この年譜の中に幾つか記されていることからその可能性があるように、この当時賢治が労農運動を行っていたり、大きく関わっていたりしたのであれば話は別である。そこで、このことに関して少し探ってみたい。

2.賢治と労農運動
 安藤玉治が次のようなことを『「賢治精神」の実践』の中に書いている。
 賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。賢治は仏教だったが私は阿部三郎牧師から社会科学の本を読ませてもらい、目をその方に開かせてもらった。
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。
 昭和2年の春頃、〝労農党の事務所がなくて困っている〟と賢治に話したら、〝俺がかりてくれる〟と言って宮沢町の長屋(三間に一間半位)をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会から)机や椅子をもってきて貸してくれた。
 賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。夏ごろ、来いというので桜に行ったら玉菜の手入れをしていた。昼食時だったので中に入ったら私にゴマせんべいを出した。賢治は米飯を食べている。〝これ、あめた(腐った)ので酢をかけてるんだ〟といったのが印象に残っている。口ぐせのように〝俺には実力がないが、お前たちは思った通り進め、何とかタスけてやるから〟と言うのだった。
 その頃、レーニンの「国家と革命」を教えてくれ、と言われ私なりに一時間位話をしたら〝今度は俺がやる〟と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。つかれればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく〝どうも有り難う、ところで講義してもらったがこれはダメですね。日本に限ってこの思想による革命は起こらない〟と断定的に言い、〝仏教にかえる〟と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
 農民は底に叛逆思想をもっていて救いがたいがとにかく一番困ることに手助けしてやらねば――というようなことをいったのも記憶している。(花巻市宮野目本館、川村尚三談)

       <『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)より>

 もしこの川村が語ることが事実であったならば、賢治は
(1) 昭和2年の春頃机と椅子を労農党に貸した。
(2) 労農党のシンパであった。金銭的援助も行った。
(3) 昭和2年の夏から秋にかけて川村からレーニンの著作の解説を受けた。
(4) レーニンの思想は日本には適さない断定し、仏教に戻ると言った。
(5) 農民は底に叛逆思想をもっていて救いがたいと思っていた。
(6) 農民が一番困ることに手助けしてやらねならぬと思っていた。
ということになる。

 たしかに、〔「詩ノート」付録〕の「生徒諸君に寄せる」などを思い出せば、そこには結構どっきりするような言葉が詠み込まれていたはず。

    生徒諸君に寄せる
  〔断章一〕
   この四ヶ年が
       わたくしにどんなに楽しかったか
   わたくしは毎日を
       鳥のやうに教室でうたってくらした
   誓って云ふが
       わたくしはこの仕事で
       疲れをおぼえたことはない
    …(略)…
     〔断章五〕
   サキノハカといふ黒い花といっしょに
   革命がやがてやって来る
   それは一つの送られた光線であり
   決せられた南の風である、
   諸君はこの時代に強ひられ率ひられて
   奴隷のやうに忍従することを欲するか
   むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
   宙宇は絶えずわれらに依って変化する
   潮汐や風、
   あらゆる自然の力を用ひ尽すことから一足進んで
   諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
     〔断章六〕
   新らしい時代のコペルニクスよ
   余りに重苦しい重力の法則から
   この銀河系統を解き放て

   新らしい時代のダーウヰンよ
   更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って
   銀河系空間の外にも至って
   更にも透明に深く正しい地史と
   増訂された生物学をわれらに示せ

   衝動のやうにさへ行はれる
   すべての農業労働を
   冷く透明な解析によって
   その藍いろの影といっしょに
   舞踊の範囲に高めよ

   素質ある諸君はたゞにこれらを刻み出すべきである
   おほよそ統計に従はゞ
   諸君のなかには少くとも百人の天才がなければならぬ
     〔断章七〕
   新たな詩人よ
   嵐から雲から光から
   新たな透明なエネルギーを得て
   人と地球にとるべき形を暗示せよ

   新たな時代のマルクスよ
   これらの盲目な衝動から動く世界を
   素晴しく美しい構成に変へよ

   諸君はこの颯爽たる
   諸君の未来圏から吹いて来る
   透明な清潔な風を感じないのか
    …(略)…

   <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)より>

 たしか、この詩は昭和2年「盛岡中学校校友会雑誌」への寄稿を求められて着手したもののはずで、時期的にも符合する。

3.宮澤賢治は労農党の熱心なシンパ
 さて川村尚三の証言によって賢治と労農運動とには接点があったことを知ることができた。実際その頃の賢治の詩に〝労農党〟を詠み込んだ次のような詩
 一〇一六
     〔黒つちからたつ〕
                    一九二七、三、二六、
   黒つちからたつ
   あたたかな春の湯気が
   うす陽と雨とを縫ってのぼる
      ……西にはひかる
        白い天のひときれもあれば
        たくましい雪の斜面もあらはれる……
   きみたちがみんな労農党になってから
   それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ
      ……ところどころ
        みどりいろの氈をつくるのは
        春のすゞめのてっぽうだ……
   地雪と黒くながれる雲

    <『校本 宮沢賢治全集 第六巻』(筑摩書房)より>
があった。この時期には私塾「羅須地人協会」の活動から撤退して了っていたと思われる賢治だが、〝きみたちがみんな労農党〟員になったならば「羅須地人協会」の活動を再開させようと期していたのであろうか。

 一方『年表作家読本 宮沢賢治』によれば、
 賢治が社会主義に関心をもっていたことは確かだが、あまり表には出ない。しかし、大正一五年から昭和三年までの三年間、つまり羅須地人協会活動の期間と重なる時期に、労農党の関係は密接であった。昭和四二年~四五年に採録した証言を、名須川溢男の「賢治と労農党」から、引用する。
 (労農党支部事務所について)「もっと便利な広い場所のしやすいところを賢治にたのんだ、家賃などもだしてくれた。そして宮右(賢治の本家)の長屋をかりることになった」(高橋慶吾)
 「賢治さんは……中心になってくれた人だった……おもてにでないで私たちを精神的、経済的に励ましてくれた」(照井克二)
 「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ(略)実質的な中心人物だった」(小館長右衛門)
 「第一回普選は昭和三(一九二八)年二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。(略)事務所には帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった。『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっとおいていったものだ、と聞いた」(煤孫利吉)

     <『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
とある。
 そこでこの中味を箇条書きに書き直すと
(ア) 労農党支部事務所としてもっと便利で広いところを賢治に頼んだならば、宮沢長屋を借りることができ、家賃も賢治が払った。(高橋慶吾)
(イ) 賢治は表に出ないで精神的、経済的に支えた。(照井克二)
(ウ) 賢治は事務所の保証人になり、八重樫賢師を通じてその運営費を支援した。また演説会などで激励のカンパをした。実質的な中心人物だった。(小館長右衛門)
(エ) 昭和3年2月初め、謄写版一式と『これタスにしてけろ』と言って20円のカンパを置いていったと聞く。(煤孫利吉)
となろう。

 もし川村尚三の証言やこれらの人々の証言が正しければ、
 賢治の世話で宮右の長屋を労農党の事務所として借りた。家賃等の費用も賢治が出した。折々カンパもした。
ということであろうから、
 宮澤賢治は労農党の熱心なシンパであった
と言えそうだが、はたして賢治が〝実質的な中心人物だった〟のか否なのか。 

 こうなると、ますます名須川溢男の論文「賢治と労農党」を見てみる必要があるようだ。

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