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506 「賢治の昭和3年の病気」 (#3)

《創られた賢治から愛すべき賢治に》
境忠一氏の場合
 さてでは、宮澤賢治の研究書として定評があると聞く境忠一氏の『評伝 宮澤賢治』には、この「賢治昭和3年の病気」についてはどのように論じられているのだろうか見てみたい。
 六月十二日から伊豆大島の伊藤七雄、ちゑ兄妹を訪ね、「三原三部」を書いた。十五日、東京に帰り、二十四日帰花した。滞京中、歌舞伎座を見ている。花巻に帰ったのち…(略)…各村をまわって稲作指導をしてまわった。この年は気候不順で、風雨の中を奔走し、無理を重ねた。七月十日付の詩「停留所にスヰトンを喫す」には、農村指導の過労から賢治が心身の衰弱を感じている様子が出ている。…(略)…
 八月はじめ、ついに賢治は病に倒れ、豊沢町の実家に帰ったが、この頃から、彼のあまりにも早い晩年がはじまっていると考えたい。病名は両側肺浸潤であった。当時の主治医は、花巻共立病院の内科長佐藤長松であったが、重要な診断や助言については、以前から父政次郎と昵懇であった院長の佐藤隆房があたっていた。このころ賢治は農学校の教え子である高橋武治に、「八月十日から丁度四十日間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。」と述べている。
 十二月に入って、病室が防寒に不備であったために突然激しい風邪におそわれ、それを契機として急性肺炎になった。「経過から見ますと明らかに結核性肺炎」といわれる。
            <『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社)326P~より>
 そこには、上記のようなことが述べられていた。
賢治は「風雨」の中を奔走したか
 それにつけても思うのは、境忠一氏は
 この年は気候不順で、風雨の中を奔走し……④
と断定しているが、境氏のことだからもちろん裏付けをとった上での論考だとは思うが、一体何を典拠にしたのだろうか。それを私は知りたい。
 実は、「賢治下根子桜時代の花巻の天候と降水量」は下表のとおりである。



<天気は『阿部晁日記』より、降水量は「盛岡地方気象台」より。
 また、降水量欄については
 〝記載なし〟=〝全く雨降らず〟
 〝0.0〟=〝雨は降ったが降水量はゼロ〟
  昭和2年の6月のデータは未入手。
 なお、「盛岡地方気象台」には当時の花巻の天気の記録は存在してない。>

この一覧表からは、『阿部晁日記』の天気の記載と「盛岡地方気象台」の降水量の相関が強いことは一目瞭然であり、この日記の天気の記載は信頼度が高いと判断できる(ただし、昭和2年8月19日の降水量は豪雨に近いと思うので、この日だけは極めて問題だが)。
 したがって、この表の昭和3年の天気及び降水量から推論すれば、〝④〟であったということは私の場合にはどうしても導き出せない。
 もしこれが、前年の昭和2年の場合であるならばまさしくその気象条件は合致すると思うが、昭和3年の場合にはとてもそうとは言えないのではなかろうか。この表によれば、昭和3年の場合、たしかに6月末~7月初めにかけては雨は降っているが、前年のそれのように「大雨」「大雷雨」「急雨」等ということはないし、それ以降はよい天気の日が続いている。それとも、約1ヶ月前の〝6月末~7月初めにかけて〟の雨が災いして、それが約1ヶ月の潜伏期間を経て8月10日に突如発病したのだろうか。とすれば、この発病の仕方はあの伊藤忠一の証言
 あの頃は私も年が若くて、どのくらい体が悪いんだか察しもつかないで、また良くなればもどってくるだろうぐらいに思って、そのまま別れてしまいあんしたが、それっきりあとは来ながんした。
               <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37pより>
にはそぐわない気がする。
 はたして、賢治は「風雨」の中を奔走したのだろうか。データに基づく限り少なくとも昭和3年にはそんなことはあり得なかったのではなかろうか。
やはりアンタッチャブル?
 話が大分それてしまった。話を元に戻そう。
 私がこの『評伝 宮澤賢治』から知ったことは、境氏がここで「賢治昭和3年の病気」に関して述べていることは、既に佐藤隆房が『宮澤賢治』で述べていたことの焼き直しであるのではなかろうかということであり、新たなことは何も書かれていないのではなかろうかということである。
 やはりここは、境氏にはもっと別な可能性はなかったのだろうかということも是非探求していただきたかった。とはいえ、境氏のことだからそれをしなかった訳ではなかろう。この下根子桜からの撤退は、賢治の総体の中で極めて重要な行為であり、ターニングポイントの一つでもあるはずだから境氏も追求しようとしたはずである。
 しかし前掲書にはそれが著されていないということは、境氏が取材しようとしてもこの「賢治昭和3年の病気」に関しては周縁の人達の口は固く、それはやはりアンタッチャブルなことだったということを物語っているということなのではなかろうか。
 それがアンタッチャブルでっあったであろうことは『昭和文学全集・第十四巻宮澤賢治集』からも窺える。そこには小倉豊文の「解説」があるが、
 〝一四 羅須地人協會時代〟の中には「賢治昭和3年の病気」に関しての記載はなく、
 〝一七 病床時代・技師時代〟の中に
 この時代は、三十三歳の八月病臥以降三十六歳の三月の一時快癒までと…(略)…
               <『昭和文学全集・第十四巻宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)376p~より>
と、かろうじて一言「三十三歳の八月病臥」があるだけでそれ以上は言及していない。
 常に学究的な態度で臨んでいるはずの小倉にしてかくの如しだったということは、この「賢治昭和3年の病気」に触れることはタブーであったとか、あるいはそれを公にすることはタブー扱いであったということなのではなかろうか。
 つまり、賢治は昭和3年の8月に病気になって豊沢町の実家に戻って病臥したということになっているが、実はその真相は、
 賢治は病気であったから実家に戻った訳ではなくて、その真の理由は「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるために、賢治は病気であるということにして実家に戻って謹慎、蟄居していた。
のであり、それゆえにこの「賢治昭和3年の病気」に触れることはタブーであった、ということはなかっただろうか。
 あるいはまた、一部の人はこの真相を知っていたがそのような人は皆緘黙を通したということかも知れない。実際、賢治に関わるあることで、ほんの一部の人には知れ渡っていることのようだが、それを誰も公には活字にしていないことがあるが(そしてこの場合にはその人の人格や人権に関わることだからそれは当然の対処だが)、この「賢治昭和3年の病気」の真相もある面ではそれと似ていて、活字で公にすることは憚られていた(こちらの場合はそのような対応が当然とは言えないと私は思うが)という構図があったということはなかっただろうか。
 小倉でさえも「賢治昭和3年の病気」に関しては何ら探究していないことに鑑みると、そんなあらぬことまで私は想像してしまう。
『宮沢賢治聲聞縁覚録』より
 しかしその後、小倉の『宮沢賢治聲聞縁覚録』を手に入れて調べてみたならば前の私の〝想像〟は間違っていたことを知った。そこには、次のようなことが述べられていたからである。
 しかも佐藤さんは賢治生涯の最高主治医(又は最高顧問医)であった。この事情は佐藤さん著の「宮沢賢治」(冨山房刊、第四版)の「疾病考」を御参照ありたい。第四版にはじめて付加されたこの一篇は、佐藤さんに会う度に「賢治の病気についてはあなたでなくてはわからないから、ぜひ早く書いてください」と執拗に懇願した私の要望に答えてくれたものだと、少なくとも私は思っている。
              <『昭和文学全集・第十四巻宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)121pより>
 このことからは、佐藤隆房は著書『宮澤賢治』の初版において「賢治の病気について」は自身の見立てに言及していないことに小倉は気付いたので、「賢治の病気についてはあなたでなくてはわからないから、ぜひ早く書いてください」と懇願したということが導出される。
 しかしこのことはちょっと不可思議である。なぜならば佐藤著『宮澤賢治』においてこの「賢治の病気について」は同書の所収の「發病」で既に一通り述べられているからである。
 一方、小倉は
 私は全集の作品(投稿者註:十字屋版『宮澤賢治全集』のこと)を繰り返し味読しながら、この佐藤さんの本(同:『宮澤賢治』のこと)を熟読した。…(略)…そして、佐藤さんが書中で変名を使っている人々の実名や、その他いろいろうるさい質問を佐藤さんに手紙を出して尋ねた。
              <『宮沢賢治聲聞縁覚録』(小倉豊文著、文泉堂出版)30pより>
とも前掲書で語っている。
 したがって、小倉は初版に既に収められている「發病」のことを知らぬ訳はなかろう。となれば、なぜ小倉は「賢治の病気についてはあなたでなくてはわからないから、ぜひ早く書いてください」と懇願したのか、それも執拗に。
小倉は佐藤隆房に真相を語らせた
 考えられる一つの可能性は、初版に既に収まっている「發病」の方は佐藤隆房の診察による見立てではなくて佐藤長松博士の見立ての方を尊重した記述であり、この「發病」では「賢治の病気について」は正しく伝えられていないことが小倉にはわかったから、早くそのことについて佐藤隆房自身の見立てに基づいたものを書き足してくれと懇願した。それも、そのことはとても重要で大切なことだからということで小倉は執拗に佐藤隆房に懇願したという可能性である。
 そう考えれば、
 たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。
についての疑問へのこれは回答になるのではなかろうか。
 なぜ佐藤隆房は
   両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。……⑤
という言い回しをしているのだろうか。どうしてこの部分を素直に
   両側の肺浸潤で病臥する身となりました。
と表現しなかったのだろうかという疑問へのこれは回答になるのではなかろうかと私は思い付いたのである。
 つまり、〝⑤〟のように診断したのは佐藤長松博士であり、佐藤隆房ではなかった。それも、あくまでも「肺浸潤という診断で病臥する身となりました」なのであって、「肺浸潤で病臥する身となりました」のではなかった。
 だからこそ、佐藤隆房は『宮澤賢治』において、
   たいした発熱があるというわけではありませんでした……⑥
とか
   療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。
と書けた訳であり、特に〝⑥〟を佐藤隆房に書かせたのはそれこそ小倉の執拗な懇願だったと言えるのかも知れない。ひいてはこれがその真相だったいうことになるのかもしれない。小倉のまさしく歴史学者としての面目躍如と言えそうだ。
 一方で、前に私が述べた可能性
 賢治はたいした熱があった訳ではないが、佐藤隆房医師に頼んで賢治は「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにし、友人等が見舞に来ても面会を謝絶し、実家で謹慎していた。
は次のように訂正せねばならなくなった。
 昭和3年8月10日に実家にも戻った賢治は、実はたいした熱があった訳ではないが、主治医佐藤長松博士に頼んで賢治は「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにし、菊池武雄等の友人が見舞に来ても面会を謝絶していた。ただし賢治の実態はたいした発熱があるという訳ではなくて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしていました。
という可能性が大であった、と。
書簡「243」の伝える真実味
 となれば当然、賢治が昭和3年8月10日に下根子桜を去って実家に戻ったのは病気のためというよりは、他に大きな理由があったと判断せざるを得ない。
 自ずから、昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡「243」の中の
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
             <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)259pからより>
と語る賢治ではあるがそれは真実だったとは言い難くなる。もしかすると、書簡「243」の伝える真実味は危うい、ということを歴史学者小倉は結果的には示唆しことになるのかもしれない。
 また一方で、
 賢治は病気であったから実家に戻った訳ではなくて、その真の理由は「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるために、賢治は病気であるということにして実家に戻って自宅謹慎、蟄居していた。
もますます真実味を帯びてくる。

 なお、第四版に初めて付加されたという「疾病考」には実は「疾病考(一)」及び「疾病(二)」の2つがあるので今回の私の推論には荒さも残り、もう少し精確な考察が必要かもしれない…。

 『賢治昭和三年の実家蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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