《創られた賢治から愛される賢治に》
さて、佐藤隆房著『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行)はその後版を重ね、その「第四版」では新たに〝十一篇〟が増補されている。「第四版序」
その「第四版序」は次のようなものであった。
賢治さんの作品は「北ニケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラ ヤメロトイヒ」と申すような思想ですから、戦前には一部の人々から反対の目が注がれがちであったのですが、戦後の思想の大転換とともに、この賢治さんの思想は改めて識者から認められるようになりました。
小学校の教科書には「どんぐりと山猫」、中学校の教科書には「雨ニモマケズ」、高等学校の教科書には「農民芸術概論」が掲載されまして、わが国の思想上の指導者の一人として仰がれるようになりました。…(以下略)…
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、第四版、昭和26年3月1日発行)>小学校の教科書には「どんぐりと山猫」、中学校の教科書には「雨ニモマケズ」、高等学校の教科書には「農民芸術概論」が掲載されまして、わが国の思想上の指導者の一人として仰がれるようになりました。…(以下略)…
ということは、〝書簡「244a」の意外性〟で触れた、「中学校総合国語二には佐藤隆房著『宮沢賢治』から十編が教科書に採り入れられ」ということ以外に、この三作品も教科書に採用されていたということなのであろうか。当時、賢治の作品が教科書に採用されるということはちょっとしたブームでもあったということか。
それはさておき、この「第四版」には興味深い次のような増補がある。
「一〇九 疾病考(一)」
この第四版に新たに増補された部分で特に私が気になったのが「一〇九 疾病考(一)」であり、その中に昭和3年8月以降の賢治の病臥に関する次のような記述がある。
花巻下根子桜の仮寓に隠遁され、自炊生活に入りましてから二年ばかり経ちました。昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが、重要な診断や助言については、前々から父政次郎さんと甚だしい昵懇の中であって、また賢治さんとも親しい間柄でありました院長の須永博士が当たっておりました。
東北の寒い十二月のある晩のことです。その室の設備が防寒に不備であったために突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました。しかし経過から見ますと明らかに結核性肺炎であったのでした。看護のかいがあって、またその時は本人の体力も相当強く、「人は死のうとおもってもなかなか死なれないものですね。」
などと言いながら再び元気になり、冬を越しましたが病後の衰弱は相当なものでした。…(略)…
その年の秋になって賢治さんは大変に健康を取りもどし、花巻温泉辺りまで出かかるようになったのです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行)269p~より>東北の寒い十二月のある晩のことです。その室の設備が防寒に不備であったために突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました。しかし経過から見ますと明らかに結核性肺炎であったのでした。看護のかいがあって、またその時は本人の体力も相当強く、「人は死のうとおもってもなかなか死なれないものですね。」
などと言いながら再び元気になり、冬を越しましたが病後の衰弱は相当なものでした。…(略)…
その年の秋になって賢治さんは大変に健康を取りもどし、花巻温泉辺りまで出かかるようになったのです。
前回投稿したように、初版ではこのことに関して「八七 發病」で既に述べられていたのだが、増補した「第四版」ではさらにこの「一〇九」でもそのことを改めて述べている訳である。
こちらの「一〇九」に従えば、
賢治が実家に戻って病臥したことについては
・時 期=昭和3年8月~
・発病原因=食事の不規律や粗食、また甚だしい過労
・病名症状=肺浸潤という診断、たいした発熱ではない
・過ごし方=病臥
・重 病 化=昭和3年12月結核性肺炎
・快 復=昭和4年冬を越して元気に
・外 出=昭和4年秋花巻温泉へ
ということなどが言える。・時 期=昭和3年8月~
・発病原因=食事の不規律や粗食、また甚だしい過労
・病名症状=肺浸潤という診断、たいした発熱ではない
・過ごし方=病臥
・重 病 化=昭和3年12月結核性肺炎
・快 復=昭和4年冬を越して元気に
・外 出=昭和4年秋花巻温泉へ
すこぶる驚き
この「一〇九」を読んで私がすこぶる驚いてしまったのはもちろん、
たいした発熱があるというわけではありませんでした![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
の部分である。前の「八七 發病」の内容とはかなり異なっている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
もちろんここで「重要な診断や助言については、前々から父政次郎さんと甚だしい昵懇の中であって、また賢治さんとも親しい間柄でありました院長の須永博士が当たっておりました」となっている院長の「須永博士」とは仮名であり、まさしく医師佐藤隆房その人である。
何と意外にも、その
実質的な主治医佐藤隆房が、昭和3年8月に下根子桜から豊沢町の親元に戻った賢治はそれほど熱があった訳ではなかったと証言している。
ことになる。賢治が「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り」と教え子に述べているほど苦しんだはずの賢治のその病気に対してである。どう考えても、矢張り何か変である。こうなってくると、8月に実家に戻ったのはもっと大きな別の理由があったのではなかろうかと思えてくる。つまり、やはり「陸軍特別大演習」の方が大きく絡んでいるのではなかろうかと、そしてその方が説明がより付きやすいのではなかろうかと思えてきた。
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