宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

355 賢治の農事講演・肥料相談

2011年06月11日 | 下根子桜時代
                  《1↑『賢治の時代』(増子義久著、岩波書店)》

 今回はまずは昭和3年分の年譜のその3月までを再掲してみる。 
<1928年(昭和3年)>
2月 9日 湯本伊藤庄右衛門の依頼で湯本小学校で農事講演会に出席。堀籠文之進のあとを受けて講演。聴衆100名余。帰途堀籠家を訪れ長男見舞う。
2月初旬 賢治は『これをタスにしてけろ』と言って、労農稗貫支部事務所に謄写版一式と20円を置いて
     いった。(煤孫利吉の証言)
2月15日 堀籠家を訪れ長男見舞う。
2月?  2/20に行われた第1回普通選挙の際に、羅須地人協会から椅子テーブル選挙事務所に貸与。
3月15日 3/15~の1週間石鳥谷塚根の肥料相談所で肥料相談に応じる。
3月30日 石鳥谷の八重樫倉松家の店先を会場として肥料相談。朝7時半より最後の整理を30枚ほど行い、午後講演。


 この中で謄写版の件や椅子テーブルの件は投稿済みなのでそれらは割愛し、今回は農事講演・肥料相談に関して少しだけ触れてみたい。

1.農事講演
 たとえばこの2月9日の講演であるが、堀籠文之進のあとを受けて行っているから、まずは賢治の農事講演についての堀籠の証言を次に挙げたい。
 先生をやっていた学校時代も、宮沢さんは、農事講演会などは、活発にやっておりました。春休みや夏休みに、よく村をあるきました。わたしもごいっしょしましたが、湯口の阿部晁先生や「バナナン大将」平来作君の家でもやりました。「農事講演会」といっても、主に稲作のことで、肥料や土壌についての講演でした。宮沢さんはなかなか人気があったもので、宮沢さんの講演は、方言でなくて標準語でやりましたが、ときどき、ゼヒ覚えてもらいたい大事なところなどは、わかりやすく方言を使いました。人気があったことを証明するのは、貼ってあるビラに「宮沢先生講演会」と大きく書いてあることでもわかりました。その頃は農事は曲がり角にきていて、昔からのやりかたではいけないという考えが出てきて、農村にも新しい知識を求める者が多くなってきていました。冷害や病虫害も防げば防げるのだということになって、関心が、たかまってきていたのです。そこへ学校の水田で実験はちゃんとやるし、多くの本を読み、新しい知識を持った宮沢先生の登場は、ひっぱりだこの人気になったわけです。宮沢さんのは、謝礼をもらうこともなく聞きにきた人は熱心で、根掘り葉掘りの熱心な質問に、ていねいに親切に答えていました。学校をやめてからは、講演や肥料設計をやっても全くもてなしも謝礼も受けないということでしたが、わたしといっしょのときなどは、よろこんで村の人のもてなしを受けておりました。何しろ無料でやるのですから、村人はもてなそうと一生懸命ですので宮沢さんは、かえって気の毒がっておりました。
     <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
堀籠の証言からは、宮澤賢治の農事講演は大人気であったことや、講演では方言を有効に使ったりという工夫をしていたことが窺える。また賢治は一切もてなしを受けないとばかり思っていたが、堀籠と一緒の場合はそうでもなくて場合によって賢治は使い分けていたということを知ることができる。

 一方、農事講演に関して千葉恭はある講演会で次のように証言している。
 私は農事関係の指導面から賢治をみた場合、彼は科学的な農民の指導者であつたと感じています。これらのことはさつきの話にもありましたが、一つの例は、賢治が各町村の講演を頼まれたとき私も腰巾着としてお伴をしたことがありますが、彼は自分の知っている範囲のことは徹底的に教えてやろうという態度がうかがわれました。しかしそれは知識程度の低い百姓にとつては架空のことに感じられたようです。あのような先生のやり方では、教わる方では受け入れが出来ていないので、三時間の講演もそれほど意味があると思われなかつた。話が終わつて後に、自分の方からも説明しなければならないようでした。それで一を知る者には二を、二を知る者には三を、また三には四の程度を教えるようにしなければならず、一から十に飛ぶということはそこに空間が出来るのだと感じた。賢治も又そんなことを感じていたようでありました。こんな考えが私の現在の農民指導においても影響しているように思われます。
 当時、百姓たちはむしろただあの人を偉いんだとだけ感じ、どこが偉いかということはわからなかつた。これらは農家経営の経済面について話したときに多くの人々から聞いたことであります。

    <「羅須地人協会時代の賢治」(『イーハトーヴォ復刊2』(宮沢賢治の会)より)>
また、この講演会の質疑応答での問に対して千葉恭は次のように答えている。
 講演会はどの様にしてもたれたか。
 百姓たちが進んで賢治に依頼したようだ。賢治も又その依頼の真劍さに対して喜んで出かけて行った。聴講者は七、八〇人、多いときは三百二十人位で、学校や役場の二階を利用した。話しぶりはむしろ詳細に過ぎるという具合なのでその点を忠告すると、”僕はそう思わないが”と言つておられた。
 私たちが五の頭で先生が二十では、こちらがまいってしまう。賢治は自分の知っていることは全部何でも、而も限られた時間のうちに話して聞かせたいのだし、賢治自身ごく簡単なことと思つていることが、人々にとつては案外むずかしいことであつた。これらは大正十四、十五年の頃のことである。
 それで講演会の結果、話が分からなければ、設計肥料をして上げるから来るようにと言つた。昭和三年頃までに二、三千人の人に設計してやられたことと思う。

        <『イーハトーヴォ』復刊5(宮沢賢治の会)より>
堀籠から見た場合とは違って、千葉恭から見た場合賢治の講演にはやや問題点があったということを指摘している。
 堀籠の証言からは賢治の講演は人気があって中味があり、聴衆も大いに得る点が多かったであろうと推察される。しかし、千葉はそうとばかりは見ていない。賢治の講演内容が農民にとっては難しすぎるしなおかつ限られた時間内に多くのことを教えようとするがゆえ消化不良を起こしていたおそれがあると。しかも、そのことを危惧して千葉が賢治に示唆してもそれを受け入れることが賢治はできなかったようで、一方通行・自己満足になっていた傾向も否定できないようだ。

 全く千葉の言うとおりだったのかどうなのかはさておき、少なくともその傾向があったということは否めないということなのであろう。

 ところで、次のような表があった。
《2 肥料設計所や農事講演を行った場所と人》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)より>
たしかにこの表の中には昭和3年2月9日の農事講演(湯本小学校)が載っている。そしてその下欄の〝好地村塚根〟とはあの石鳥谷肥料相談所のことであろうから次の項に移ろう。

2.肥料相談
 さて、「石鳥谷肥料相談所」に関してはしばしば取り上げられているし、既に〝日詰・石鳥谷ぶらり〟等で触れているのでここでは割愛するが、その他の肥料相談所については具体的にはどこにあったのであろうかず~っと気になっていたのでそのことについて以下に列挙したい。

 今まで投稿した中から関連する部分を抜き出してみると次のようになる。
(1) まず、佐藤隆房の証言
…その無智な有様を見て、非常に氣の毒と思ひ、何とかこれを救濟しようと思つた賢治さんは、羅須地人協會開設と同時に、花巻町(上町)石鳥谷町、その他縣内數箇所に肥料の無料設計所を設けました。
     <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)より>
に接し、肥料相談所は数ヶ所あったんだと考えた。

(2) 次は千葉恭が「羅須地人協会時代の賢治」で
 …最初蓄音機屋の一間を借りておつたが一週間して”いちの川”というところの土間を借りて勉強しておりました。次の年から忙しくなつて私も応援を頼まれてお手伝いしました。
 賢治は三年間肥料設計をしてやり、その後は結果をみて設計いたしましようと言つておられたが、惜しいかなその結果をその結果を見ずして死なれたわけです。

   <(『イーハトーヴォ復刊2』(宮沢賢治の会))より>
と述べていることから、この”いちの川”が上町にあればそれが佐藤隆房が言うところの〝花巻町(上町)〟の肥料相談所のことかなと思ってその場所を探したならば、ほぼその場所と思われる場所があった。

(3) さらに、伊藤克己が「先生と私達―羅須地人協會時代―」で
…春になつて先生は町の下町と云ふ處の今の額縁屋の間口一間ばかりの所を借りて農事相談所を開いた。誰でも事由に入れて、無料で相談に應じてくれたのである。
     <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)より>
と語っているので、その〝額縁屋〟を探してみたならばたしかにその場所もあった。

(4) また、対談「先生を語る」の中に
 肥料相談所を開設したことがあったが―。
 下町の宮沢の店にはじめ、次は旧郡役所の北側に、その次には石鳥谷に開設した。

         <『賢治随聞』(関登久弥著、角川選書)>
とあるので、肥料相談所は下町の〝宮沢の店〟と〝旧郡役所の北側〟にも開設したと思われる。

(5) このうちの「下町の〝宮沢の店〟」とは佐藤成が述べている
…国道筋の目抜きの場所、つまり商店街、賢治の家に曲がろうとする角、現在岩手銀行花巻支店の向角に「三新」という小間物屋があった。その頃店の一隅にこの肥料相談所を開設して無料で相談に応じていた。また旧郡役所の北側、土木事務所のあったところ、その中に卓球台が一台おかれてあった。ここにも開設した。さらには隣接の石鳥谷、日詰、太田村等にも設けてカーキー色の作業服で終始出入りし活躍した。
     <『宮沢賢治―地人への道―』(佐藤成著、川嶋印刷)より>
の中の「三新」のことなのだろうか。というのは地図的にはこの2つの場所は重なりそうだからである。そこで気になって「三新」のあった場所を確認しようとしているのだが現時点ではまだ出来ていない。

 なお、以上の(1)~(5)に関しては既に投稿したことがあるものなのだが、さらに次のような清水武雄の証言もあった。
(6) …(町の中心部の)ガソリンスタンドの場所に机一つと椅子二つを置いて、「植物病院」という看板を掛け、百姓達の農事相談や肥料設計に応じていた。
       <『賢治の時代』(増子義久著、岩波書店)より>
そして、この「植物病院」も地理的には下町〝の宮沢の店〟の場所と重なりそうだ。

 したがってこれらの証言からは、肥料相談所があった場所についての候補は、石鳥谷肥料相談所以外については
 ・花巻町(上町)の〝いちの川〟
 ・下町〝額縁屋〟
 ・下町〝の宮沢の店〟(「三新」?、「植物病院」)
 ・旧郡役所の北側(土木事務所)
 ・〝蓄音機屋〟
 ・日詰
 ・太田村
などが挙げられそうである。たしかに佐藤隆房の言うとおり県内に数ヶ所の肥料相談所があったと言えそうだ。

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