goo

237 草野心平とは?

    《1 ↑草間心平肖像(『詩人 草野心平の世界』(深澤忠孝著、ふくしま文庫)より》

 草野心平についてかつて知っていたことは、たしか中学校の頃だっただろうか
  るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
という詩などを書いた「蛙の詩人」だということを教わったことと、宮澤賢治を早い段階からとても評価していた人であったということぐらいであった。
 その後知ったことも僅かしかなく、草野心平は同人誌『銅鑼』を主宰していて賢治は「永訣の朝」などをこの同人誌に発表したこと、また賢治の没後彼の作品の紹介に尽力したということぐらいなものであった。

1.草野心平の略年譜
 草野心平に関する著書、『詩人 草野心平の世界』(深澤忠孝著、ふくしま文庫)という新書を入手出来た。
《2『詩人 草野心平の世界』(深澤忠孝著、ふくしま文庫)》

 そこで、まずはその本の巻末にある「草野心平略年譜」から主なものを拾ってみたい。

1903年(明治43) 5/12 福島県上小川村(いわき市)5人兄弟の次男として生まれる
1910年 4月 小川尋常高等小学校入学
1916年(大正5年) 4月 県立磐城中学校入学
1919年 2学期 磐城中学を4年で中退(教師いびりと成績がた落ちで放校寸前)
     12月 上京 
1920年 4月 慶應義塾普通部3年に編入
     10月頃 同校を退学
1921年 1月 中国広州に渡り、広東事業公司勤務
      9月 広東嶺南大学入学
1922年 機関銃の如く詩を書き始める
1923年 夏休み 徴兵検査のため帰国、兄民平の遺稿と合わせて処女詩集刊行
1924年 広州で『春と修羅』を読み瞠目する
1925年 4月 『銅鑼』創刊
     7月 排日運動のあおりで卒業目の前にして帰国、黄瀛(こうえい)のもとに身を寄す。
      宮澤賢治を同人に誘う。
     12月 『銅鑼』第9号「永訣の朝」掲載
1927年(昭和2年) 6月 百姓を志し帰郷
     11月 百姓断念し上京
1928年 6月 『銅鑼』終刊、江島志摩やまと結婚
1929年 6月 上毛新聞社入社
1930年 11月 上毛新聞社退社、再び帰郷し百姓を志す
1931年 2月 上京、麻布十番に焼鳥屋「いわき」開店
1932年 5月 実業之世界社入社
     6月 同居していた石川善助不慮の死 
1935年 5月 『歴程』創刊
1938年 2月~4月 帝都日日新聞社長秘書として中国各地旅行
     12月 詩集『蛙』刊行
1939年 11月 東亜解放社入社
1940年 7月 中華民国中央政府(南京政府)宣伝部顧問として中国へ
1941年 2月 『歴程・紀元弐千六百年版』(賢治の詩5編掲載)刊行
1945年 7月 陸軍より現地召集
1946年 3月31日 日本に帰国し生家着、9月21日第14回賢治祭出席
1947年 7月 『歴程』復刊
     10月 故郷小川郷駅前に貸本屋「天山」開店
1948年 8月 肋膜を患い単身上京安浦に落ち着く
1950年 5月 一連の蛙の詩により第一回読売文学賞受賞
1951年 12月 評論『宮澤賢治覚書』刊行
1952年 3月 小石川田町に酒場「火の車」開店
1956年 6月 川内村平伏沼畔に心平の歌碑建立
1960年 9月 川内村名誉村民となる
1961年 3月 国立市に転居
1963年 10月 東村山市に転居
1966年 7月 天山文庫落成
1970年 9月 評論『わが賢治』刊行
1983年 11月 文化功労者。
1984年 7月 いわき市名誉市民となる。
1987年 11月 文化勲章を受章。
1988年 11/12 没(享年85歳)

2.草野新平と宮澤賢治
 この著書『詩人 草野心平の世界』からは心平と賢治の関係もある程度見ることが出来る。
 この著書の中に次のような章がある。
  (二) 宮澤賢治・高村光太郎
 …(略)…
 多くの無名詩人の自費出版がそうであるように、詩壇ではほとんど無視されていた。いわゆる文学仲間や文壇の付き合いのなかった賢治にとっては、当然かも知れなかった。岩手地方での若干の評価はともかく、中央で認めたのは佐藤惣之助と辻潤、心平の三人であったと言っていい。
 心平が認めたと言っても、当時中国へ渡って三年目、二一才、広東嶺南大学の貧し学生で、詩も書き初め、賢治以上に無名であった。その無名の詩人のところに、『春と修羅』が海を渡って届いた。磐城中学の後輩で、当時日比谷図書館に勤務していた赤津周雄が送ったものである。…(略)…
 心平は一読、その新鮮さに瞠目した。感銘と激賞、以来五十余年、賢治の死を越えて宿命というか、むしろ業とも言いたいような関係と交渉が続いている。…(略)…
 一九二五年(大14)七月、排日運動のあおりを受けて帰国して間もなく、心平は『銅鑼』同人勧誘の手紙を出し、賢治は直ぐ承諾し、九月八日発行の四号には、すでに賢治は心象スケッチ二篇が載っている。…(中略)…
 「多分は七月、私ははじめて宮澤賢治に手紙を書いた。…(略)…賢治に書いた手紙の内容はもう忘れてしまったが、骨子は銅鑼同人勧誘の要望だった。それには直ぐ返事がきたが、特徴のある筆蹟と、不思議と思える文面が自分にはひどく印象的だった。特にその中の「私は詩人としては自信がありませんが、一個のサイエンティストとしては認めていただきたいと思います」といった一節は、四十数年たったいまでも憶えている。賢治は同人参加を承知し、一円の小為替と詩「負景」二篇とを同封して寄越した」(「賢治からもらった手紙」)…(中略)…
 賢治から心平に送られた手紙は十数通あると思われるが、現在は賢治側の下書き以外は見られない。
 「世界的だといふことはほんたうに数カ国語にでも翻訳されてからでも云ふべきものであって、『春と修羅』にそんな可能性はまづなからう。尤も古典と云へば云へないでもない。これ位進んだ世界の中で中世的世界観と社会的意識をもって全著を一貫してゐる意味に於いてである。或いは徳川末期の腐った俳句などをも古典といふ意味に於いてである。」(『校本全集』十三巻)
 …(中略)…
 『春と修羅』が出て間もなく、これだけの評価と展望を与えた者はいなかった。
…(中略)…

     <『詩人 草野心平の世界』(深澤忠孝著、ふくしま文庫)より>
 心平が『春と修羅』を手に入れた経緯、心平が賢治を激賞していたこと、その激賞に対して謙遜している賢治だが実は結構自信を持っていたであろうことなどが読み取れる。

3.小倉豊文の見方
 一方、小倉豊文は『宮澤賢治研究の回顧』の中で次のようなことを書いている。
 …彼は大正十三年四月に詩集「春と修羅」を、同年十二月に童話集「注文の多い料理店」を、単行本として自費出版した。だが殆ど売れもせず…一般に全く注目されなかつたらしい。
 けれども、この処女詩集は漸く文壇の一部を驚倒させた。その第一人者は辻潤氏である。彼は詩集発行後三ヶ月目の七月廿三日、読売新聞に載せた「惰眠洞妄語」の中に、賢治の独創性と情緒や感覚の新鮮さをあげ「若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら『ツァラトストラ』を忘れても『春と修羅』を携えることは忘れはしないだろう」と褒めちぎつた。ついで同年十二月の「日本詩人」に、佐藤惣之助氏が賢治の詩の言葉の特異性に注目して「奇犀冷徹その類を見ない。大正十三年度の最大の収穫である」と絶賛した。読売は当時の文芸新聞であり、日本詩人は当時の詩壇の中心雑誌である。…
 …以上の両氏と同じ頃から賢治の作品に注目し、年を追つて最もよき理解者となり、支持者となり、紹介者となつて現在に及んでいる詩人がもう一人あつた。それは本書の編者草野心平氏である。氏も亦「春と修羅」によつて始めて賢治の存在を知つたのであるが、当時氏は広東嶺南大学在学中であつた。…
 翌大正十四年には、草野氏は広東で同人詩誌「銅鑼」の発行を始め、七月帰国後も続刊していたが、この雑誌の四号以降に賢治は殆ど毎号作品を載せており、これと併行して草野氏との文通がはじまつた。…
 ところで賢治と草野氏との関係は、当時士官学校に留学中の中国の軍人詩人黄瀛と賢治を結び、黄氏を通じて高村光太郎と相知つた草野氏は、高村氏をして賢治を知らしめたのである。高村氏は草野氏にすすめられて「春と修羅」を読むに及んで、始めて傾倒するに至つたとは、氏の生前に直接私の聞いたところである。草野氏に紹介された高村氏はその後間もなく賢治の訪問を受けており、黄氏は晩年の病床に賢治を訪問し、二人とも賢治と親しく話し合う機会をもつたのである。 

     <『宮澤賢治』(草野心平編、筑摩書房、昭和33年発行版)より>
 無名の宮澤賢治をいち早く世に知らしめるにあたり、心平の存在が如何に大きかったかということがこの小倉の文章からだけでも十分確認できる。

4.賢治「銅鑼」への寄稿 
 因みに、賢治が『銅鑼』に発表した作品を『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)の”年譜”から拾ってみると以下のとおり。
・大正14年
 9/8  「銅鑼」4号 「心象スケッチ 負景二篇」 <―命令―>と<未来圏からの影>発表
 10/27 「銅鑼」5号 詩二篇<休息>と<丘陵地>発表
・大正15年 
 1/1  「銅鑼」6号 「心象スケッチ」<昇羃銀盤>と<秋の負債>発表
 8/1  「銅鑼」7号 「心象スケッチ二篇」<風と反感>と<「ジャズ」夏のはなしです>発表
 10/1?「銅鑼」8号 <ワルツ第CZ号列車>発表
 12/1 「銅鑼」9号 <永訣の朝>発表
・昭和2年
 2/21 「銅鑼」10号 <冬と銀河ステーション>発表
 9/1  「銅鑼」12号 <イーハトヴの氷霧>発表
・昭和3年
 2/1  「銅鑼」13号 <氷質のジョウ談>発表

 さてこの『銅鑼』だが、昭和3年16号を以て終刊となったのだそうだ。しかし、心平はその後も賢治に詩を依頼しているようで、例えば深澤忠孝は『詩人 草野心平の世界』で次のように記している。
 昭和6年11月のことのようだが
  「私は『弩』のために賢治に詩を依頼した。送ってくれたのは文語体の詩であった。(略)送られた文語詩がどうも気に入らず、改めて別稿を依頼した…」
と。ただし同じく先の”年譜”によれば、賢治は別稿の要請には応じなかったという。
 その後心平は『次郎』を企画、賢治に参加を要請し同意を得たが、それが賢治からの最後の手紙(昭和8年8月初旬の頃)となったと深澤忠孝は先の著書に書いている。ただし、”年譜”に依れば
「高村氏草野氏等同人雑誌を作るとの事私例によって遁げました」
ということなので賢治自身は参加を許諾したわけではなさそうだ。
 なお、この『次郎』も『弩』も結局は刊行されなかったが、形を変えて『宮澤賢治追悼号』が次郎社から出版されたのだそうだ。

5.おわりに
 その後も心平は盛んに賢治について書き続け、『宮澤賢治研究』まで出すことになっていったという。例えば次がその一つである。
《2 『宮澤賢治研究』》(草野心平編、十字屋書店)》 

 
 続き
 ””のTOPへ移る。
 前の
 ””のTOPに戻る
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。
目次”へ移動する。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 236 庚申紀念塔  238 辻潤と佐... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。