吉本隆明は終戦時の高村光太郎の「一億の号泣」を読んで、はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。なぜなら、それまで2人が信奉してきた価値観、とりわけ天皇制ファシズムが崩壊した中で彼は新たな立脚点になる思想的拠り所を模索し始めていたからである。
しかし、高村は「一憶の号泣」後、全ての活動を停止し「戦争責任」を自問して7年間岩手での隠遁生活をする。そのため吉本は彼を評価することになる。(ただ高村の反省に疑問を呈する人もいるが)
高村はこう語った。「何も偉いことはありません。この通りの生活をしています。私は戦時中戦争に協力しました。文学の方面や美術の方面などで。戦争に協力した人は追放になっています。私には追放の指令が来ませんが、自分自ら追放、その考えでこう引込んでいるのです」。
そして1947年7月に以下の詩を作っている。
「わが詩をよみて人死に就けり」
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の太腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向つた。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
しかし、高村は「一憶の号泣」後、全ての活動を停止し「戦争責任」を自問して7年間岩手での隠遁生活をする。そのため吉本は彼を評価することになる。(ただ高村の反省に疑問を呈する人もいるが)
高村はこう語った。「何も偉いことはありません。この通りの生活をしています。私は戦時中戦争に協力しました。文学の方面や美術の方面などで。戦争に協力した人は追放になっています。私には追放の指令が来ませんが、自分自ら追放、その考えでこう引込んでいるのです」。
そして1947年7月に以下の詩を作っている。
「わが詩をよみて人死に就けり」
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の太腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向つた。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
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