SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

どマンの示唆

2010年05月09日 | Weblog
>我々の議論から示唆される最後の点は、美学的なカテゴリーと認識論的なカテゴリーとの区別にもとづいて、文学と哲学を関係づけたり区別したりすることはできない、ということである。いかなる哲学も比喩表現に依存しているかぎりは文学たることを免れないし、また、いかなる文学もまさにこの問題の受託者となる以上ある程度は哲学たらざるをえない。この二つの陳述は対称性をかたちづくっているようにみえるが、しかしそれはそうした見かけほど我々を安心させてくれるものではない。何故なら、このとき文学と哲学が軌を一にしているようにみえたとしても、精神と対象にかんするコンディヤックの議論の場合と同様、それはあくまでも両者には同一性や特殊性が欠如しているがゆえにそうみえるにすぎないからである。(ポール・ド・マン著『美学イデオロギー』93ページ)

 コンディヤックの『人間認識起源論』のうち「身振り言語」について論じた章節において起こっていることは、言語を譬喩として認識するところから出発したら、物語り(ナラティヴ)が連続的に紡ぎ出されてきた、という事態である(同80ページ)。「物語りの指示対象となっているものが、実は当の言説そのものの譬喩論的な構造」なのだとすれば、文学と哲学は、この逆説と類似の関係でガッツリと結ばれている。

>そしてそれは裏返せば、文学的な隠喩の逆説性を限界まで追いつめれば、そこには逆に真性の哲学が現れるということでもある。哲学者があくまでも哲学者として先に進もうとしたとき、《厳密に哲学的であるがゆえに逆に文学に頼らざるをえない》、そういう逆説が、ここにははっきりと現れている。(東浩紀著『文学環境論集(赤本)』196ページ)