>なぜこのことをお話する気になったのかわかりません。この発見そのものが出来事だったから、このように遺物(アーカイブ)が残されたほかの出来事についての出来事だったからかもしれません。一方では脆くはあっても動じない物質、物質的な保管庫、媒体(シュポール)、支持体、文書があり、他方ではこうして記載された出来事の特異性、一回限りの事実、「一回性」「空前絶後性」があり、この二つのあいだの関係を問おうとしていたからかもしれません。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻343~344ページ)
いわゆる「疑似ドキュメンタリーもの」の映画にもしかして見所があるとすれば、それはまず第一に、問題の映像がのちに発見なり発掘されたという、その状況の設定にこそあるのではないか。そうでなくとも、これまで封印されていたとか、関係者が公開を拒んでいたとか、いずれにせよ遺物扱いの映像(アーカイブ)には違いない。問題はおそらく、このアーカイブとシミュレーション、損傷した物質と加工された記憶との関係を問うことなのである。
>ところで主体の同一性の問題は、またテクストの同一性の問題にも変形される。テクストはつねに完結せず、開かれている。これはクリスティヴァやエーコを参照するまでもなくありふれた認識だが、デリダが優れているのは、のち詳しく論じる、彼がそれをネットワークの不完全性の問題から考えた点にある。そこではテクストの「開放性」は間テクスト空間への溶解としてではなく、むしろテクスト=手紙の一部が配達過程で行方不明になったり、あるいは一部損傷したり他の手紙と混同されたりする可能性として捉えられている。実際デリダは70年代後半以降、その種の開放性の実践として、意図的に損傷された擬似書簡という形式のテクストをいくつも発表している。そしてそこで重要な役割を果たすのは、「行方不明の郵便物」の隠喩である。(東浩紀著『存在論的、郵便的』87ページ)
(続く)