SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

オースティンの恐れ

2010年05月05日 | Weblog
>混合様相は言語にもともとそなわっている措定の力によって、どんなに現実離れした架空の存在物でもつくりだすことができる。混合様相というのは、現実という織り物(テクスチャー)をばらばらに寸断し、それをきわめて気まぐれな仕方で組み立てなおし、たとえば男性と女性、人間と野獣といったように、きわめて不自然なかたちの組み合わせを新たにつくりだす、というわけだ。実際、どんなに無邪気な濫喩のなかにも、何かしら怪物めいたものが潜んでいる。たとえば人がテーブルの脚や山の表面(フェイス‐顔)について語るとき、濫喩はすでに活喩〔prosopopeia〕となっており、人は潜在的には幽霊や怪物の世界を知覚しはじめているのである。(ポール・ド・マン著『美学イデオロギー』76ページ)

『美学イデオロギー』の訳者あとがき(386ページ)を読むと、この「措定」という言葉こそが、あの「ポジティングpositing」の訳語であることがわかる。しかるに、「混合様相」というのは「撒種(引用可能性)」のことである。言語行為論のJ・L・オースティンは、コンスタティヴとパフォーマティヴとの峻別を維持するために、この「混合様相」についての思考を避けた。おそらく、言語分析の厳密さのなかに「幽霊や怪物の世界」が出現することを恐れていたのである。

まずはジョン・ロックの問いから

2010年05月05日 | Weblog
「よい姿形をした《取替え子》は人間であり、たとえそう見えないとしても、理知的な魂をもっている。これは疑いをいれない、とあなたは言う。だが、通常よりも耳を少し長くもっと尖らせ、鼻を少し平たくしてみよう。するとあなたはためらいはじめる。顔をもっと狭く平たく長くしてみよう。するとあなたは立ち止まる。さらに獣に似た要素をますます付け加えて、頭を完全に何か他の動物の頭にしてみよう。するとたちまち《怪物》だ。そして、そんな怪物は理知的な魂をもたないから抹殺せねばならない、というのがあなたの議論である。では(私は問うが)、どこに正しい尺度があるのだろうか? 理知的な魂を保持する姿形のぎりぎりの境界はどこなのだろうか? これまで産み落とされた人間の胎児のなかには、半分が獣で半分が人間というのもあれば、その割合が四分の三と四分の一という場合もあった。そうだとすれば、獣の姿形や人間の姿形に近づくありかたもきわめて多様でありうるし、人間に似た要素と獣に似た要素がさまざまな程度で混じり合っていることもありえよう。それゆえ、この(人間は理知的な魂をもつという)仮説に従いながら、理知的な魂を連結できる顔立ち、あるいは連結できない顔立ちとは、正確にはどのようなものか、それを私はぜひ知りたいと思う。内側にそうした(理知的な魂という)住人がいるかいないかを示す確実な記号となるのは、いったいどんな種類の外側なのか?」(ジョン・ロック著『人間知性論』より。ポール・ド・マン著『美学イデオロギー』75ページから孫引き)