SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

人間の意図をこえたもの その2

2010年05月03日 | Weblog


>注目すべきなのは、ヴァールブルグが情念的身体の激しい運動表現を取り上げるとき、それを「定型」と化した、反復される紋切り型の状態でとらえようとしている点である。そもそも「情念定型」という言葉には、形容矛盾の響きがある。「パトス」がアリストテレス以来、精神の持続的な自制を意味する「エートス」と対をなす概念であり、瞬間的に人間の魂をとらえる出来事をさす言葉であったのに対して、「定型」とは一定の形式に凝固することにより、時を隔てて反復されるステレオタイプにほかならない。「情念定型」なる概念は瞬間と持続の矛盾を孕んでいる。ヴァールブルグが着目したのは、定型化した身ぶりに型どられることで初めて、情念(パトス)に囚われた身体は表現されえたのであり、運動の表象はこの定型への凝結によってこそ伝播し継承されたという逆説的な事態であった。(田中純著『アビ・ヴァールブルグ 記憶の迷宮』第8章「イメージの病理学」220ページより抜粋)

 テレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』には、あきらかにこの「情念定型」のリアクションが認められる。丘の斜面で兵士達が、あたかも「戦闘舞踏」を演じるかのようにして倒れていくのである。そして日本軍による玉砕攻撃。この映画を見直したのは藤田嗣治の《アッツ島玉砕》の分析のためだが、いまだ人間が戦争で血を流し続ける理由を、この「情念定型」のステレオタイプに見てみたいのである。これすなわち、「血の郵便制度」の問題である。

>真理は知の郵便制度の、家族は血の郵便制度に守られる。(東浩紀著『存在論的、郵便的』86ページより)

(続く)