2005年にグッゲンハイム美術館で行なわれたマリーナ・アブラモビッチのパフォーマンス「Seven Easy Pieces」については、キュレーターのスパイキー真也が詳しい実況見分を行なっている。そのうち第5夜の「死んだウサギに絵を説明する方法」については、池田のあんちゃんがさらに詳しい見分を行なっている。この見分から分かることは、このパフォーマンスの舞台設定がどうやら「逆パノプティコン」であるらしきことだが、スパイキーもあんちゃんも、そこでアブラモビッチの顔に張られた「金箔」や靴底の「鉄のかかと」については、その「象徴的意味の失調」を批判的に指摘するだけである。あんちゃんいわく「そこでは、強い記号性を持つはずの物体や行為からことごとく神秘的象徴性がはぎとられ、浮薄かつ滑稽な(スーパーフラットな?)『もの』が立ち現れてしまう」。しかし、このパフォーマンスでその「もの」性(顔に張られた金箔や床に響く硬い金属音)は、たとえば「与えられたもの一切を否定(荒川&ギンズ)」する「抵抗する物質(デリダ)」として示されているのではないだろうか。ヨゼフ・ボイスの象徴論は、この逆パノプティコンの舞台の上でその意味を失うと同時に、「喪の象徴論」として復活しかけているのかもしれない。よく解らんがね(爆)。
2005年にグッゲンハイム美術館で行なわれたマリーナ・アブラモビッチのパフォーマンス「Seven Easy Pieces」については、キュレーターのスパイキー真也が詳しい実況見分を行なっている。そのうち第5夜の「死んだウサギに絵を説明する方法」については、池田のあんちゃんがさらに詳しい見分を行なっている。この見分から分かることは、このパフォーマンスの舞台設定がどうやら「逆パノプティコン」であるらしきことだが、スパイキーもあんちゃんも、そこでアブラモビッチの顔に張られた「金箔」や靴底の「鉄のかかと」については、その「象徴的意味の失調」を批判的に指摘するだけである。あんちゃんいわく「そこでは、強い記号性を持つはずの物体や行為からことごとく神秘的象徴性がはぎとられ、浮薄かつ滑稽な(スーパーフラットな?)『もの』が立ち現れてしまう」。しかし、このパフォーマンスでその「もの」性(顔に張られた金箔や床に響く硬い金属音)は、たとえば「与えられたもの一切を否定(荒川&ギンズ)」する「抵抗する物質(デリダ)」として示されているのではないだろうか。ヨゼフ・ボイスの象徴論は、この逆パノプティコンの舞台の上でその意味を失うと同時に、「喪の象徴論」として復活しかけているのかもしれない。よく解らんがね(爆)。