SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

魚たちの時間

2008年07月22日 | Weblog
「私が考えるのは魚の我慢強さと我慢の無さだ。捕われ、検査され、ガラスに入れられて私と同じ種に属する。魚になった感じだ。ガラスの前に、後ろに、視線の前に立たされて、必要な時間、私は待たされる。よく考えるのは、魚たちの時間経験だ。時に地獄のようにも思える。動物に見つめられるたびに、最初に浮かぶ問いの一つは、この近さと、我々を隔てる無限の距離における時間のことだ。同じ瞬間に生きながら彼らの時間経験は私の経験に翻訳不能。そのうえ彼らは私同様、我慢し、我慢せず、ご主人たちの熱意に従っている」(ジャック・デリダ)

 ジャック・デリダとサファー・ファティの共著『言葉を撮る』(青土社)に添付されたDVD『デリダ、異境から』(1999年)には水族館のシーンがある。上の殉教者の言葉は、カメラと水槽のあいだで発言されたものである。池田のあんちゃんはこのシーンをどう見るだろうか?  

「時間の前での、時間に対する辛抱のなさは、このことに由来する。魚の水槽のガラスの前で、それは透けて見える。囚われの魚たちは、水族館で、どんな時間経験を持っているのか? この問いを、ハイデガーもまた、宙づりのまま残した。この問いは〈滞留する[demeure]〉と彼は言う。動物たちは時間経験を持っているのか? どのような?」(ジャック・デリダ+サファー・ファティ著『言葉を撮る』(青土社)181ページより抜粋)