SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

セザンヌの時間3

2006年10月31日 | Weblog
>モネの連作を、瞬間毎の連なりとして時間性を獲得する映画的連作と呼んだのに対して、セザンヌの連作性は、それぞれの作品が時間的充溢性をもった一つの映像として存在する、そのような時間的集積のさらなる蓄積、すなわちアーカイヴ的連作とでも考えるべきものではないでしょうか。(池田孔介氏のセザンヌ論より抜粋)

 つまりモネの連作が「フィルム・イメージ」であるとすれば、セザンヌの連作はいわば「デジタル・イメージ」であると、そうおっしゃる? もちろん池田氏はそんな馬鹿言ってない。しかし先の提案をした後、一息つく間もなく池田氏は、あたかも「古谷画伯が『セザンヌと村上隆を同時に観る』というのであれば、僕は『セザンヌとシンディ・シャーマンを同時に観る』つもりだ」とでも言わんばかりの発言を続けます。この私たちの曲解は、しかし程度の問題にすぎない。一つ間違えば、必然的にそういう結論に達する危険性があります。近代絵画の父たるセザンヌの描いた作品を、例えば『シミュレーショニズム』(椹木野衣)の妄想から論ずることなど、あってはならないことです。言わずもがなセザンヌは村上隆(笑)でもなければシンディ・シャーマン(笑)でもない。しかし、あるいは川俣正である可能性はある。少なくともサント・ヴィクトワール山の連作に限って言えば、『セザンヌと川俣正を同時に観る』ことは、むしろ普通にあり得る。そうでなければ、あのテリー藤枝(晃雄)が川俣正を見留めることも無かったでしょう。ではそこで「場所」と「時間」はどのように交錯しているのか? ここにこそ本当の「アーカイヴ」の充溢があるのです。(続く)