SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

セザンヌの時間1

2006年10月27日 | Weblog
『文化的誤植を注視せよ!』などと言われるまでもなく、そこに発表された池田孔介氏によるセザンヌ論それ自体が、既にして訂正不能なまでの「文化的誤植」であると言うほかない。「時間とは」と題されたこのセザンヌ論は、しかしセザンヌの「時間」については何も語られていないだけでなく、かかる小林秀雄による「瞬時も止まらず移ろい行き消えてゆく印象に、各瞬間毎に、確乎たる統一の感覚が現れるのは何何故なのか?」という必要最低限の設問にすらまともに応じていない有様なのである。そんな「時間」はおろか「空間」にさえ見放された眼では、もはや何も「注視する」ことなどできますまい。とはいえ、セザンヌの「時間」について考えることは極めて困難である。あの「セザンヌおたく」を自称するモダニスト古谷画伯ですら「曖昧なまま」であるがゆえ、ここで何を間違えたか「スーパーフラットは今でも僕達の時代のリアルだ」をその本懐とする私たちがこの問題について何事か論じようとすることなど、本来あってはならないことである。だがもし本当に「セザンヌと村上隆は同じ」であるのだとしたら(ありえないが)、語る権利は大いにあるだろう。(続く)