SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

我観る、ゆえに我在り

2006年10月15日 | Weblog
>つくづく、「私」というのは、「私の観ている風景」によって出来ているのだなあ、と思ったのだった(偽日記06/10/13(金)より抜粋)

 しかし古谷画伯がそこで観ているのは、本当に「私の観ている風景」なのだろうか。迂闊にも実は他人の撮った映像だった、という「忘却」の可能性はないのだろうか。いや、むしろその映像が実は「他者の観ている風景」だったにもかかわらず、その「忘却」によってこそ「私の観ている風景」という主観的思い込みが可能となっているのだとしたらどうなのか。現代は、かつてデカルトが生きていた頃のような「我思う、ゆえに我在り」の時代ではなく、共有イメージの蔓延した「我観る、ゆえに我在り」の時代である。そこで「私」というのは、古谷画伯がここで主張しているような「私の観ている風景」ではなく、むしろ「他者の観ている風景」の断片から、私がそれを「実際に観る必要も無い」まま、いかにしてかオートマティックに組み上げられてくるだろう。実際には観なくとも、観ようと思えばいつでも「録画」で観ることができるという「観る権利」さえあれば、それだけで「私」の生成は十分に可能なのだと思われる。そして「忘却」に基づく「私」を生成するのは、これまでに観た「過去の映像」だけではないだろう。録画したけれど未だ観ていないテレビ録画や、そもそもまだ撮影どころか企画さえ立っていない未知の映画のフィルムのなかにも、おそらく「私」の要素はバラバラの断片として、時間差のうちに散乱している。