summer diary

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伊勢神宮参拝

2019年09月03日 | Weblog
 今日は妻も休みで一緒に出掛けようと昨夜から話をしていて、今日は二見が浦で夫婦岩の神社(興玉神石 )で参拝し、御朱印を頂き、それから伊勢神宮内宮に行き、参拝して御朱印を頂き・・・。 
これまで何度も伊瀬神宮には訪れているけど、御朱印を頂いたのは今日が初めての事である。 御朱印帳(手書き御朱印帳)を持ち始めたのは昨年の京都旅行からである。 三千院で御朱印帳を求めて、それから旅に行く毎に御朱印帳を持って行くことにしている。 
この朱印だけど、私は知多四国遍路を7年前から初めていて、知多四国遍路は今年で6巡目となり、最初から持っている御朱印帳はすでに朱印で隙間がないぐらいになっている。 
今年はまだ半分程度にしか廻れていないけど、これから季節がようやくよくなり、バイク日和が楽しみである。 今年は新しく1冊知多四国遍路の御朱印帳も購入して、以前から持っている朱印帳と一緒に朱印を頂いていたけど、やはり、私一人で参拝しているので、一度に2冊はやはり気が引ける。 
なので、次回からは今年から新規に購入した御朱印帳だけで廻ることにしている。 それが満願したら、以前からの朱印帳を持って参拝しようと思うのである。  御朱印はスタンプラリーとは違い、やはりそこには思いが込められていないと意味がない。 単なる御朱印収集で終わらせないことも大切な思いである。 もっとも、私も当初はバイクで出かける目的としてお遍路をしようと思いついたのであるけど、今年で6巡目となり、それなりにお遍路の奥深さを感じるような気がするのである。 
さらに、この知多四国遍路を続けている過程で、この地元の知多半島には幹線道路以外に、とても多くの道があることや、各お寺で参拝することで、精神的な安定感をもたらすような気もするのである。
平日の日中はお寺に参拝する人も少なく、ほとんど一人でお寺の境内を歩き、粛々と参拝し、静かな時間を感じることがとても心地よい時間であることを実感することが出来るようになった気がする。 
もちろん、御朱印が幾重にも納経帳に重なることも満足することもできるけど、本当には御朱印を頂くこと自体は重要ではない。 
本来、参拝すること自体に意味があるのであるから、その参拝に伴ってある意味では参拝の証明としていただく物なのである。
それでも、参拝の証明が居るのか? 今ではお寺、神社も参拝者を増やすために御朱印自体を奇抜な物にしたり、いかにもご利益があるような宣伝すら見受けられるような御朱印もある。 本来はそうした物ではない。
ただし、お寺や神社の存続のためにもお金は必要である。 檀家が減少する中で、いかに維持保存する資金を得ることが出来るか? そうしたことも踏まえて、今後も沢山の人が訪れるようなアイデア、催事などを行うような神社や寺も増えてきている。
今日も伊勢神宮に訪れる外国人も多く見受けることが出来た。 特に中国、韓国、ベトナムなどからの訪問者は少なくない。 
韓国は靖国神社の閣僚などの参拝を批判的に捉えているけど、日本の神社、仏閣などに足を運んでいるのである。 果たして、本当に神社、寺に参拝する意味が理解できるだろうか??? 単なる旅行先の観光として捉えていることも明らかな気もする。 日本人自体が宗教に対して無頓着な人種であり、日本は世界的にも稀に見る無宗教の民族だろう。 無宗教と言うと何か負のイメージだけど、そうではなく、日本人の寛容精神は宗教とう狭い枠組みに捕らわれることもない。 クリスマス、ハロインもあたかも当然の如くに祝うのであり、新年には神社で参拝し、人が亡くなった時にはお寺でお経を唱える。 
日本にはこうした神と仏が両立していて、信仰自体は意外と薄いのである。
形式に囚われるのも日本人の特徴で、茶道、華道なども意外と厳密にその所作が決められているのである。 
伊勢神宮参拝にはその作法があり、清めの水で左手、右手、左手で水を取り、口を漱ぎ、その左手を清め、最後に柄杓の柄を残った水で洗い流す。 
参拝は二拝二拍手一拝であるなど、いろいろとその作法が決められているのも日本的な特徴かもしれない。 
この作法も神社によって異なっている。 二礼四拍手一礼は出雲大社の参拝の作法であり、伊勢神宮参拝とは異なっている。 
この拍手と礼の数に関してはなぜなんだろう?? と思うであるけど?
一般的には伊瀬神宮の作法が基本的な作法のようである。
また、手を合わせる時には右手を左手より下げることが基本であり、左手は神を意味し、右手は自身を意味するので、神を自身より下にすることはよろしくないと言う意味がある。 
これはお寺で参拝するときも同じで、やはり右手は左手より少し下にして合わせることが基本である。
しかし、要するに、作法以上に大切な物は心から無垢な気持ちで参拝する精神だろう。 願い事もある意味では気持ちを奉納するとしては良いだろうけど、本来は人間の煩悩から脱却して、いかに神や仏陀の悟りに近づくことが出来るか・・・。 それにより、不滅、不動、普遍的な精神世界へ辿りつくことが出来るのだろう。 それは、何も特別な物ではない。 
人間が人間として自然に生きる事。 それは他の生き物と同じように特別なことではない。 天には神が地には我が・・・。 それは永遠に繰り返される宇宙的な生命世界である。