若竹屋酒造場&巨峰ワイナリー 一献一会 (十四代目日記)

何が酒の味を決めるのか。それは、誰と飲むかだと私は思います。酌み交わす一献はたった一度の人間味との出逢いかもしれません。

500gで生まれた全盲の女の子

2005年06月26日 | 近ごろの十四代目
生きてます、15歳。―500gで生まれた全盲の女の子

ポプラ社

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今日は井上美由紀さんとお母さんの美智代の講演を聴く機会がありました。笑いあり、涙ありの素晴らしい講演でした。

超未熟児での出産はあまりにリスクがあると医師に堕胎を勧められた母・美智代さん。しかし彼女にはどうしても出産したい理由がありました。結婚の約束をした人との間にできた子供。反対にあおうとも籍を入れようと言ってくれた。その人が出張で出た先で交通事故で突然、亡くなったのです。そしてショックから美智子さんは早産してしまうのでした。

生まれた児は体重わずか500g。身長はボールペンほどしかありません。指は爪楊枝、頭は卵くらい。そして血行が悪いためか全身真っ黒でした。でもかすかに手足がピクピクと動いています。この児は生きようとしているんだ、と感じたと言います。

保育器に入ったわが子は、全身に様々な器具を取り付けられています。生まれ持った病名も10以上ありました。とにかく生きて欲しい。そう願いながら面会に通い続けます。そして出産5ヶ月目にわが子が「未熟児網膜症」つまり生まれながらの全盲であることを告げられます。

死のうと思った。育てる自信もない。どんな死に方をすればいいのか、そればかり考えていたと言います。しかし万一どちらかが生き残ったらそれこそ地獄。同じ地獄なら二人で生きよう。そう思い直し、美智代さんは決心を固めました。出産7ヶ月で病院の反対を押し切り美由紀さんを保育器から出し退院。そのときの美由紀さんの体重は1700gでした。

その後、美智代さんの壮絶ともいえる子育てが始まります。もう二度と泣かない。そう心に誓い、美由紀さんがいつか自立できること希望に厳しく躾けました。そう、娘にオニババアと罵られようとも。

幼稚園の準備に一時間半もかかります。上着に足を突っ込んだりと普通の子が出来る事ができない。教えてやるのは簡単です。しかし、じっと待つ。初めてシャツを着れた時はものすごく喜び、褒めました。私が美由紀にできることは抱きしめること、それだけなのです、と。

実は母・美智代さんも母親のいない子でした。しかもネグレクト(育児放棄)されていたそうです。美由紀さんへの厳しい躾けは、自覚のない幼児虐待では、と悩んだこともありました。そんな美智代さんもまた、育児を通して美由紀さんから救われていたのです。「お母さん、私を産んでくれてありがとう」盲目の娘の言葉に心の傷は消えたのでした。

まさに波乱万丈、苦難の連続といっていい美智子さんの人生。しかし、いま美智代さんはこういいます。美由紀ありがとう。おかあさんはあなたを育てたことで、人生の課題をクリアできました。自分の母親を許し、愛せるようになったのです、と。そして美由紀さんもこう言いました。

私は目が見えませんがみんなの優しさが聞こえます。メチャメチャ子を愛するおかあさん、産んでくれてありがとう。私は目が見えないのでたくさんのことはできないかも知れません。でも努力することはできます。今度はおかあさんに喜びの涙をながしてもらいたいです。それは私の夢を実現できた時に叶うでしょう。

みのう悠々放談会でBBQ

2005年06月23日 | 近ごろの十四代目
今日は、高山美佳さん率いる「みのう悠々放談会」で久しぶりに集まりました。前回同様、色んな食べ物を持ち寄って、家族でワイワイやりましょう、というものです。

今回はイビザの尾花君(豆腐の燻製持参!激ウマ)と、うきは市教育委員会の小田さんも初参加。
もう県内では有名店になりつつあるベーカリー「シェ・サガラ」の相良君から、嬉しい報告が。カリフォルニア・レーズン協会主催の全国コンテストで入賞を果たし、なんと米国研修に招待されるとのこと!凄い。

業界では知られた雑誌「カフェスイーツ」にも掲載されるなど、ここのところ評判も実力も赤丸上昇中の相良君。美味いパンを持参。今回も美味い豚肉を持ってきてくれたリバーワイルド・ハム・ファクトリーの杉君もお洒落な雑誌「Kyushu-eyes」に特集で掲載されていたな。

うきは果樹の村「やまんどん」末次君から自家製クッキー、草野町の中野鮮魚店からは刺身盛り合わせ、街道塾の林君(林肥料店)からは自家栽培のお米でおにぎり、ちくご手づくり村の栗木さんからお団子、今回も会場となった和仁さん(竹炭工房・和仁)からは五穀米おにぎりと漬物、若竹屋からはもちろん極上の純米酒!

うわ~、テーブルに乗り切れないお皿の美味そうなこと!たまりません。みのうの豊かさがここに集結!って感じでした。それにしても、この放談会仲間の多士済々ぶりには驚くばかり。美佳さんの魅力に引き寄せられる面々なのでした。

萩で維新をおもう

2005年06月22日 | ものおもう十四代目
昨夜のキャンドルナイトの後は、旧知の堀田さんらと湯田温泉の居酒屋で打ち上げ。今日は萩に向かいました。

ご存知の通り、萩は明治維新の志士たちを多く輩出したまち。僕は司馬遼太郎の「世に棲む日日」を読んで以来、高杉晋作のファンなのですが、萩の生家を訪ねました(いいんです、ミーハーで)。思ったより質素な建物(木戸孝允旧宅は凄く立派だ)。武家屋敷が多く残る城下町はとても美しかった。夏の暑い日ざしと静謐な空気。道をゆく小学生たちの笑い声が響く。

あの子供たちは明倫小学校の子供たちだろう。明倫小は吉田松陰も学んだ藩校・明倫館の跡で、驚くほど立派な木造建築だ。こんな町に過ごした子供たちは幸せだなぁ。ここは平成と江戸時代とが奇妙なバランスで共存している。

日本人にとって江戸時代は異郷ほどに遠い。そう感じるほど明治維新を境に日本は歴史の繋がりを失っているように思う。「正しい歴史認識」が話題になる昨今だが、明治以降の戦争を評価する前に、明治維新をもっと学べばいいんだ。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」
「おもしろきこともなき世をおもしろく(すみなすものは心なりけり)」
松陰も晋作も明治を見ずに散っていった。遺った言葉ではなく、眼に見えぬ生き様にこそ響く心を持ちたいと思った。

キャンドルナイトin山口

2005年06月21日 | 近ごろの十四代目
今日は夕方より山口に足を延ばしました。山口JCの副理事長をしている田原さんが経営している豆子郎(とうしろう)である「100万人のキャンドルナイト」に誘われたのでした。

素敵な日本庭園のある本店「茶蔵庵(さくらあん)」の敷地に無数のキャンドルを配し、姜暁艶(ジャン・ショウイェン)さんの二胡演奏やバーサービスなどで盛り上がりました。冬至のキャンドルナイトを田主丸でもやってみようかな、と考えた。

行徳哲男先生の講演

2005年06月19日 | 青年会議所の十四代目
今日は青年会議所、福岡ブロック事業である「福岡から始まる誇りある日本の創造フォーラム」が開催されました。

浮羽JCより担当ブロック委員長として出向している林田幸司君をはじめとする委員会メンバーが苦しい大変な思いをしながらこの事業にまでたどり着いたことを見てきました。行徳哲男先生の基調講演とそ第2部のパネルディスカッションともに、素晴らしい内容で、これまでの林田委員長の苦労が報われたな、と思っています。後は行政に提出する意見書の内容を充実するために、様々な角度での意見集約をしていくことでしょう。

行徳先生の基調講演のダイジェストは以下。。。。。

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ご紹介に預かった行徳です。じつは私は自分の名前が好きではありません。「徳を行って」いない人間だからです。しかし広隆寺の弥勒菩薩を見たとき救われた気持ちになった。くだらない人間である自分を恥じる気持ちが救われた気がしました。なぜ、ただの木彫りの像に心安らぐのか…。

ドイツの哲学者カール・ヤスパースは弥勒菩薩を「人類が作り上げた最高の美」と称しました。「私は世界中を回ってあれほどまでの完成された笑顔の顔を見た事がない」と。そしてこうも言ったのです。「あの笑顔になる為には相当の過ちを犯さなければならない」と。そのヤスパースの言葉に私は、自分が弥勒菩薩を見てなぜ心救われるのかを理解したのです。

私は「野鴨の行徳」というあだ名があります。それはいつも野鴨の話をするからです。それはこんな話です。デンマークにあるジーランドと言う土地にある湖がありました。この湖には毎年、野生の鴨たちが翔んできます。その湖のそばに、ある善良な老人が住んでいて、毎年大変な距離を渡って来る野鴨たちに餌を与えるようになりました。野鴨たちはおいしい餌があるし、景色がいいから、この湖ですごす季節は毎日が豊かで、楽しくて、健康的で、大変恵まれていました。

野生の鴨たちは渡り鳥なのでひとつの湖に住み着くことはなく、ある季節を過ごしたあとは餌を求めて次の湖に翔び立つ習性をもっています。ところがある年から野鴨たちは、こんなに景色がいい、こんなにおいしい餌がたくさんあるのだから、何も大変な苦労をして餌を求めて次の湖に翔びたつことはないじゃないか、とその湖に住み着いてしまいます。

なるほど、毎日が楽しくて、健康的で、恵まれて豊かでしたが、ある日野鴨たちに不幸が訪れます。毎日おいしい餌をたくさん用意してくれていた老人が死んでしまい、明日から食べる餌がなくなってしまったのです。そこでしかたなく鴨たちは餌を求めて次の湖へ翔びたとうとすると、どうしたことかかつて何千キロも翔べる力をもっていたのに、まったく力がなくなっていて翔ぶこともできなければ、駆けることもできないのです。

そのとき鴨たちに更なる不幸が訪れます。近くにあった高い山から雪解け水が激流となって湖に流れ込んできたのでした。ほかの鳥は丘に駆け上がったり、翔びたったりしてその激流を避けますが、醜く太ってしまったかつての野鴨たちはなすすべもなく激流に押し流されてしまったのでした。

今の日本は湖の鴨に似ていると思いませんか!世界で最も恵まれた国。水と平和がただだと思う国民。今の日本は平和と豊かさをむさぼっています!野生の鴨の話は平和と豊かさに酔いしれた我々への警告なのです。現代日本人は何を失ったのか?それは「気」です。

「気」とは感性です。現代人は「ときめく力」、「感じる心」を失っている。それは「頭」ばかりを磨いてきたからだ。大事な力は「頭」じゃない!「感動」という言葉は論語から来ていますが、これは「感即動」です。感じることは即ち動くことですよ。感じることは即ち動かすことです。ほんとうの指導者になろうと思うのならば、皆さん、「感じる力」を磨きなさい。

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知覧から飛び立った少年特攻兵、水戸学の藤田東湖の言葉、淀川長治のエピソード、伏見工業の「泣き虫先生」山口良治、玄洋社の頭山満、日本を訪れたアインシュタインが残した言葉、元寇を迎えうった北条時宗などなど様々なエピソードから日本人の本質、人間の本来の力を語る行徳先生。その独特の語り口調と感動的な講演に場内全員が魅き込まれました。

同友会・福博支部で報告しました

2005年06月15日 | 同友会の十四代目
福博支部の6月例会で報告者としてお呼ばれしました。

お声かけ頂いたのは「志賀島経営計画作成セミナー45期」で同期の山脇さん。テーマは「経営指針」です。福博支部には親しくさせて頂いている方が多く、かなり緊張しました。それにしても人前でお話をする機会を頂いたとき、どうしても格好つけてる自分が居て嫌になります。ウケを狙ってスベッてみたり、誇大表現になってしまったり、我田引水になってちっとも論理的でなかったり、あせって早口になったり、あ・この人眠そうだなぁと気になったり、もう自分の嫌なところが出まくってしまいます。

そんな自分の話でも、頷きながら真剣な眼差しで聴いて下さる会員の皆さんに感謝します。あの頷きにどれほど勇気付けられることか知れません。懇親会では突っ込んだ経営の話や、父の昔を知る方のお話を聴けるなど、楽しくビールを飲みました。そう、馬鹿な僕はお酒を持っていくのを忘れちゃったんです…。せっかくの機会だったのに。。。

若竹屋の使命と価値

2005年06月12日 | ものおもう十四代目
12日に田植えをしたメンバーに「子狸の会」のみなさんがいます。その会にまつわる話を書かせてください。

平成12年2月の事です。「子狸の会」の会長を務めていただいているN様と奥様は、もう何年も北九州の仲間たちとご一緒に若竹屋へ酒造り体験に来られていました。ご夫妻そろって田植えをし、夏には草取り、秋になって稲の刈り取りに来られるのです。平成11年の夏のある日、草取りを終えて「和くら野」へ食事にお越しになったN様ご夫妻からこんな事を言われました。

「林田さん、ありがとう。僕たちは若竹屋さんと出会えてとても幸せです。素敵な仲間たちと出会い、若竹屋さんのお酒を知り、ご好意で田植えから酒造りまで体験させていただいている。自分の手で植え、刈り取った米で、酒を造り味わう。こんな贅沢は他にありませんよ。皆さんの顔を思い浮かべ飲む酒の美味いこと。妻と一緒に、小さな列車に乗って田主丸を訪れるたびに、なんて幸せなのだろうと思わずにいられません。」夫婦そろって日焼けした顔で笑いながら、そう語りかけられました。

年が明けて1月7日に仕込みに来られ、翌2月11日に待望の酒搾りに来られましたが、N会長ご夫妻は用事のため一日の作業を途中で止め、仲間達より一足先にお帰りになりました。そしてその日の夕方に、突然、N会長の奥様はお亡くなりになったのです。

「林田さん、本当にありがとう、本当にありがとう。若竹屋と出会えて妻は幸せでした。僕ら二人の人生に豊かさというものを若竹屋は与えてくれました。だからこそ、もっと若竹屋の酒を妻と一緒に飲みたかったです」
お悔やみの席でN会長が言ったその言葉を私は忘れる事ができません。

初代若竹屋伝兵衛は何としても酒を造りたかった。美味い酒を造り、お客さまに飲んでもらいたかった。そしてお客さまと共に、職員さんたちと共に、喜びを分かち合いたかった。その創業の理念と志は、これからも変わることなく受け継いでいかねばなりません。そしてそんな思いを込めて醸す酒を通して、私たちは人々に活力を与え、喜びと楽しさを提供し、地域社会に貢献するという使命があります。

300余年にわたり若竹屋が存続して来れたのは、そんな志と使命を燃やしつづけてきたからであり、それを実現してきたのはまぎれもなく若竹屋に勤めてきた職員の皆さんの活動であり、全員のチームワークが産み出した力なのです。N会長ご夫妻はそこに若竹屋の価値を感じていただいていた、と思うのです。

みんなで田植え!

2005年06月12日 | 近ごろの十四代目
今日は若竹屋で使っている酒米「山田錦」の田植えをお客様たちと一緒にしました。

若竹屋では山田錦を5軒の生産農家と共に作っています。そのうちの一軒、横溝さんの田圃で田植えをしました。日頃から親しくしている酒販店とそのお客様たち、あわせて40名ほどが集まりました。田植えは初めて!という方がほとんどで、みんな泥だらけになりながらワイワイ大騒ぎデス!

田圃に足を踏み入れたら「お~、いぼる!」と叫ぶ人(笑)。「足の指にニュルニュル土が入る~」と笑う子供たち。天気もよく、耳納の空気を存分に吸って、じつに清々しい一日でした。

           

土佐の男、梼原君

2005年06月10日 | 近ごろの十四代目
高知から友人の梼原(ゆすはら)君が遊びに来てくれました。

梼原君は昨年9月の青年経営者全国交流会でお世話になった、高知同友会の同志です。報告者である僕と、座長の栗木さん、同行者の柳田さんとともに大遅刻した失態を、見事に収めた恩人なのです。

その彼が、マリンメッセのギフトショーに来ると言うので、懐かしいメンバーとの再会をしようということになりました。9日の夜に久留米市内の居酒屋に集まり、楽しい時間を過ごしました。2軒目は焼き鳥屋へ。

ところで、久留米市は久留米は焼き鳥屋さんの数が日本一(人口比)ということご存知ですか?しかも全国にはない特徴があります。串が出る前にキャベツのザク切りが皿にもって出る。串ネタは鳥以外の方が多いなど。ということで日吉町の「うら川」で経営話に盛り上がりました♪ 互いに影響を受けた経営者は誰だとか、読んで感動した本は何だとか。それにしても気の会う仲間は読んでる本が近いってのも面白い発見でした。

さて、その梼原君の働きもあって、来月再び高知同友会へお邪魔することになりました。今度は高知で存分に飲みましょうね。

梼原君の会社
ガーデンデザイン・エクステリア工事設計施工 「装建
四万十ヒノキとガーデングッズのお店 「はなみずき

マリンメッセのギフトショー

2005年06月09日 | 近ごろの十四代目
マリンメッセであった第1回福岡インターナショナルギフトショーへ高知の友人、梼原君と一緒に行ってきました。販促に関する様々なアイテムがあったり、楽しいギフトパッケージがあったりと勉強になりました。

館内はプレス以外は撮影禁止になっています。なんでも出品物をデジカメで撮影されて翌週には類似商品がアジアに出回ったりするので、それを防ぐためとか。僕としてはブログに画像がないのも寂しいので、だまってシャッターを切ってしまいました…。

中学生が職場体験に来ました

2005年06月09日 | 近ごろの十四代目
田主丸中学校の生徒さん2名が「職場体験」に若竹屋へやってきました。田主丸中学校の「職場体験」と、浮羽工業高校の「インターンシップ」を毎年この時期に受け入れています。

さて3日間の職場体験のうち僕も少し時間を貰って「なぜ、何のために人は働くのだろう。仕事とは一体何だろう」というテーマで話をします。中学生はとても素直に話を聴いてくれます。

子供たちに、人はなぜ働くのだろう?または何のために働くと思う?と尋ねると100%「お金のため、生活のため」と答えます。それ以外には?と聞いても返答する子は、あまりいません。働いた経験がないので当然といえば当然です。では、学校の先生は給料を貰うために君たちの相手をしているのか、それってどう感じる?と尋ねれば違う答えが返ってきます。

職場体験の受け入れは若竹屋にとっても大きな学びがあります。自分の仕事を分かるように説明すること。思いやりの気持ちを持って接すること。素直に指示を聴く子供たちの姿勢。若竹屋の職員も彼女たちから大いに学びます。


万事困難は己の心中に有り

2005年06月08日 | ものおもう十四代目
今日は浮羽町内の酒販店廻りをしました。どの酒販店を廻ってもお店の人の口から漏れるのは「売れなくて苦しい」という言葉です。確かにこの不況の中での実感に違いありません。けれど、やっぱり、ちょっと残念な気持ちがしました。

今から8年前にハウステンボスの創始者である神近義邦さんから頂いた本「ハウステンボス物語」に一筆メッセージを書き添えていただいた事があります。そこにはこう書かれています。「万事困難有己心中」。神近さんは定時制高校を卒業後、長崎県西彼町役場に就職しました。

神近さんは一職員に過ぎないにもかかわらず町づくりについて町長と何度も対立し、とうとう町役場を辞めてしまいます。世代が交代しながら1000年を生き続ける街を創る。それが神近さんの壮大な夢でした。誰が聞いても馬鹿げているとしか思えないような構想を神近さんは幾度の困難を乗り越えながら実現に向けて活動してきたのです。

「メジ事件」と言われる有名な話があります。ハウステンボス宮殿にレンガを貼りつけているときオランダの宮内省がチェックに来ました。するとレンガとレンガの間のメジが本物の宮殿よりも2ミリ広いと判った。レンガは既に200平方メートル張られていました。しかし神近さんはレンガの張替えを指示しました。4000万円の費用をかけて、わずか2ミリの違いを直した。これにはオランダ政府も驚いたそうです。以後、オランダ女王はハウステンボス構想に全面的な支援を約束するのです。

本物を追求する神近さんの信念がオランダ女王をまで動かした、という事は僕達とはあまりにかけ離れた話かもしれませんが、彼の「生き方」に学ぶものは多くあります。何事も困難とは己の心の中にある。自分自身に限界をつくり言い訳をしていては成し遂げられるものは何もない、そう神近さんは言いたかったのではないでしょうか。

私たちにも若竹屋として、酒を通して人々の心を豊かにする、という信念と使命を持っています。酒販店さまたちが「若竹屋のお酒を売っていて良かった!」と思って頂く仕事をもっともっとしなければならない、そう思った一日でした。


「お前、耳納連山は好きか?」

2005年06月06日 | ものおもう十四代目
「お前、耳納連山は好きか?」
そう、祖父に聞かれたことがある。私が若竹屋に入社して間もない頃だ。若竹屋の跡取なんかなりたくない、そう思って田主丸を飛び出した私は東京で気ままな暮らしをしていた。夜学で大学に通いながら昼間は様々なアルバイトを経験した後、広告代理店に入社したが、やがてあるきっかけから若竹屋の後継を決意し西武百貨店で修行をした。あしかけ9年の東京生活を終えた私は、青雲の志を持って若竹屋に入社した。

「若竹屋を日本一の蔵元にする」そんな志も思いばかりで、明確なビジョンを描けないまま目先の、小手先ばかりの変革に手をつけたところで思うように進まない苛立ちを抱えていたときの事だ。まだ田主丸に居た祖父を尋ねて、我社の現状や進まない変革についてなど、愚痴をこぼした。

「日本一の蔵にならんといかん。局の鑑評会で局長賞ば取って、全国でも金賞に入る。そして東京の一流の専門店で取り扱ってもらって、有名飲食店でお客様に飲まれるようにならんと。いつまででん、頭ば下げて売りこまんと売れんような酒じゃイカンとやないか?俺はそん為に一生懸命しよるとに、誰んわからん。俺のしよるこつば理解せん。このままじゃつまらん」

私の話をじっと聴いていた祖父は、穏やかな顔をして口を開いた。
「そうか、それは大変の。ところで、お前、耳納連山は好きか」
祖父は何が言いたいのか。急に話を変えられて気がそがれた。祖父の部屋は南向きに大きく窓が開かれており、そこから青々とした耳納(みのう)連山が見えていた。

「そりゃ、小さか頃からずっと見て育った山やけん、好いとるよ。どれだけ眺めていても飽きん」
「そうか。俺もこの山が好きや。浩暢が日本一になりたい、て言うのは、山で言えば富士山になりたいちゅうことやろう。お前は富士山と耳納の山とどっちが好いとるか」

「それは…耳納連山のほうが好いとる」
「そうか、そうか。俺も耳納の山のほうが好いちょる。耳納の山は美しかな。たしかに富士山は日本一の霊峰ばってん、たった一人で立っておる。耳納の山の美しさは、峰峯が連なって屏風のようになっている姿や。あの頂の一つ一つは若竹屋の代々の蔵元なんぞ。あの峰裾のひとつひとつが若竹屋の職員なんぞ。お前は、たった一人で日本一の富士山になりたい、そげん言いよる様に聞こえるの。のう浩暢、お前、耳納連山は好きか」

祖父の話を聴きながら、涙を流していた。若竹屋十四代目の後継ぎとして知らず知らずに肩肘を張っていたのかもしれない。俺が、俺が、と自分の事ばかり愚痴をこぼしながら仕事をしていた。早く周囲から認めてもらいたい、そんな思いがエゴとなって日本一という言葉に囚われていた自分がいた。

祖父は中学を卒業してすぐ、早逝した父親にかわり若竹屋の十二代当主を継がねばならなかった。また体が弱く兵役に取られる事のなかったこと、国の為に働けなかったことも含めて周りからやっかみ半分、陰口を叩かれていた事もあったのではないか。しかし、そんな境遇の祖父だったからこそ、自分一人の力で若竹屋を続けてきたのではない事を誰よりも感じていたのかもしれない。

いま祖父は、大好きだった耳納の山の頂きの一つとなって若竹屋を見守っていてくれている。
若竹屋OB会で懐かしい顔に逢った今日、そう思った。

若の寿OB会に行ってきました

2005年06月06日 | 近ごろの十四代目
今日は筑後川温泉・富久屋で若竹屋職員のOB会がありました。

先代、先々代と苦楽を共にした歴戦の職員さんたち。年に一度、集まって懇親を深めています。僕の小さな頃をよく知っているので、「社長っち呼びきら~ん。どうしても浩暢ちゃんっち言うてしまうねぇ」と笑います。そんなみんなが話す若竹屋の想い出話には学ぶことがとても多くあります。

一緒に働いていた頃には言えなかった家庭の事情があったこと。きつい仕事の中で声かけられた一言で救われた気持ちになったこと。もう辞めようと思って相談した同僚から励まされたこと。色々な出来事が彼らにもあったように、多分いまの職員さんにも同じような思いを抱えている人もいるのだろうと思います。現役社長として、ソコを感じ取れる人間にならんとイカンなぁと反省しきり。

「浩暢社長、何でも相談に来んね。いつでん相談に乗るけんね」と80歳になるOB。
ありがとうございます。OBの皆さんは若竹屋の強力なサポーターです。これからも応援よろしくお願いします!

中小企業憲章を制定しよう

2005年06月03日 | ものおもう十四代目
今日は「中小企業憲章制定にむけた学習運動」に出席してきました。

以前、「欧州地方自治憲章」を九州大学大学院の木佐教授から学びましたが、欧州では21世紀の経済発展と雇用の担い手は中小企業にある、と「欧州小企業憲章」というものも制定されています。

日本では、中小企業に対するイメージがネガティブですよね。大企業になれない会社、合理的でない組織、産業発展の残滓、などなど。それは過去の政府の産業政策から産み出されたものでもあるのです。実は1963年まで日本の対外貿易輸出高は中小企業がその半数を占めていました。

その63年に中小企業基本法が出来たのですが、それは輸出振興を大企業にシフトする内容になっていたのです。それ以来近年まで、中小企業は大企業のもとで発展するもの、部品は中小企業が作り組立ては大企業がするもの、といった産業構造で経済が進んできました。

バブル崩壊以降、この産業構造が破綻した。大企業は下請けや系列によらない資材調達をし、中小企業の市場にまで降りてきて競合するようになった。僕たち中小企業は、大企業と同じ土俵で経営を行わなければならない。そんな時代にこれまでと同じく大企業中心の政策では、日本の活力が失われるのです。つまり、雇用の70%を担い、事業所の99%を占める中小企業が経済と環境に与えるインパクトを正しく認識することが政府の課題なのです。

そこで日本でも「中小企業憲章」を制定しようという運動が始まっています。それは、我々中小企業家は日本経済・地域社会の発展に貢献しよう、そして同時に我々の経営環境(法律や政策)の改善を主体的に行おう。さらには国民の意識を変革し、創造者や挑戦者に対する社会の評価を高めて行こう、と宣言するものになるはずです。

言ってみれば、式典での席順が国会議員・県議・大企業・中小企業と並ぶ序列、そこに疑問を感じない僕たちの意識改革をしようという(ちょっと乱暴な言い方かな)中小企業の応援宣言。これからの動きに注目してみてください。