若竹屋酒造場&巨峰ワイナリー 一献一会 (十四代目日記)

何が酒の味を決めるのか。それは、誰と飲むかだと私は思います。酌み交わす一献はたった一度の人間味との出逢いかもしれません。

東日本大震災について

2011年03月21日 | ものおもう十四代目
東北地方太平洋沖地震の発生から一週間以上が経ち、被害状況も徐々に明らかになってきています。被災された多くの方々に心から哀悼とお見舞いを申し上げます。

歴史上かってない惨状が日本各地を覆っています。刻々と報道される被災地の姿を見るにつれ、あまりの痛ましさに言葉もありません。被災地の皆さんには一刻も早く立ち直って欲しいと願うばかりです。そしてそのために私たちが今できる事は何かと今回の「春の蔵開き」の開催についても検討を重ねました。

現段階での物資援助を考えるならば義援金を送る事、また長い目で考えるならば東日本を含めた復興には西日本がそれを支える経済活動をしっかりする事。この2点を基に、蔵開きを開催することで義援金を募り、売上の一部も含めて社会福祉協議会等を通じ寄付する事などを決定しました。震災復興の支えとなれるよう私たち自身が元気を失わない事も大切なのだと考えています。

どうぞ皆様のご理解とご協力を頂きますよう心からお願い申し上げます。
私たちの活動が被災された方々の一助となりますように。

合資会社 若竹屋酒造場
十四代目社長 林田浩暢

四国八十八ヶ所巡り(お遍路はじめ)

2008年03月16日 | ものおもう十四代目
高松での酒の会をキッカケに、四国八十八ヶ所巡り(いわゆるお遍路さん)を始めました。何かと思うところの多い今日この頃なのです。。。

もともと学生時代からバイクツーリングをしていて、全国津々浦々を走ってきました。中学時代は自転車で九州を、高校からはバイクで全国を、バックパッカーとして欧州を2ヶ月ちかく回ったこともありますが、ようは旅が好きなのです。

今回は、1番札所霊山寺から10番札所切幡寺までを順に打ち(お遍路ではお寺を回ることを「打つ」と言います)、そこから88番札所→79番札所天皇寺までと逆に打ってきました。

初めのうちは自分の白衣姿も気恥ずかしく、般若心経の読経も蚊の泣くような声で細々と詠んでいましたが、そのうち慣れてきます。慣れてくると、心経の一文字づつが心の中でだんだんと大きくなってきました。

お寺をまわるごとに、思い浮かぶ人の顔も変わってきました。最初は家族、次に亡くなった祖父母、それから親族、友人知人、過去に出会い別れた人々、それからご先祖様、そして生まれてから今までの自分自身の顔…。そんな顔々に心経の文字やご本尊の尊顔が重なっていきます。そうか、これがお遍路なんだぁ。。。

まだ始まったばかりの四国お遍路ですが、時間がかかっても八十八ヶ所を巡りきりたいと思っています。

画像は3番札所金泉寺の山門

酒造体験

2008年01月20日 | ものおもう十四代目
若竹屋では、お取引先の酒販店や飲食店のみなさまに酒造体験をして頂く機会が多くあります。今季はのべ200名以上の方に酒造りを体験して頂きました。

酒造りを体験すると、お酒の事が大好きになります。大好きになると、自分のお店でお酒を扱う時に大事に扱っていただけます。それから、お客さまとお酒の話をする時にリアルに熱が入ります(笑)。それは接客技術の向上にもつながります。私たち若竹屋にとっても、酒販店さま・飲食店さま、そしてお客さまにとっても良いことだらけなんです。

日本酒離れ、と呼ぶむきもあるようですが、若竹屋ではこんなふうに地道な市場活性化に取り組んでいます。

日本酒は伝統産業?

2007年11月19日 | ものおもう十四代目
先日「九州ビジネスマンズカレッジ異業種交流セミナー」でパネルディスカッションにパネラーとして参加しました。「伝統産業の新しいチャレンジ」というテーマで、オカモト商店野口さん千年工房岡野君らと共に「伝統産業について」を語り合いました。コーディネーターは九州経済誌「フォーネット」の松本編集長。実は、4人とも明治大学の卒業なんですね。それもあって松本編集長つながりで仲良くして頂いています。

ところで、日本酒って伝統産業なの?

「伝統産業」の定義を調べようとして「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」なるものを見つけました。昭和49年に公布されたもので、それによると指定要件として…

1 工芸品であること。
2 主として日常の用に供されるものであること。
3 製造過程の主要部分が手工業的であること。
4 伝統的技術または技法によって製造されるものであること。
5 伝統的に使用されてきた原材料であること。
6 一定の地域で産地を形成していること。

とあります。輪島塗、南部鉄器、加賀友禅など193品目指定(H13年時点)があるそうです。これらは「伝統工芸品」として認知されているものですが、では一般的に「伝統産業」って皆さんどんなイメージですか?そこには「衰退しつつある産業」ってニュアンスがありませんか?一般的な伝統産業のイメージは…

1 一定の地域で主として伝統的な技術又は技法等を用いて製造される産業品で
2 しかし、その技術はマニュアル化(大量生産化)しにくい上に、
3 それら技術者の高齢化と後継者不足に陥っており、
4 日常の用(ケ)というより祭事など非日常(ハレ)で用いられ、
5 従って現在は衰退の道を辿っている。
6 よってわずかに残る産業として希少価値があると思われている。

こんな感じですか?(あえてイヂワルク考えてみました^^;)

単に歴史が長い産業、というだけで伝統産業とは呼ばないでしょう?人間の歴史と共にあらゆる産業は歴史がありますもの。そうすると確かに清酒は衰退産業ですけど。う~ん、パネラーとして呼ばれたのは嬉しいのですが、ちょっと待ってよ!と(笑)。なんか抵抗あるなあ…。

つまり、逆に言えば、衰退していなくて成長してたらソレは伝統産業と呼ばれないのでは?

楽しくなけりゃ仕事じゃない (泊りがけ合宿会議)

2007年01月22日 | ものおもう十四代目
若竹屋には「営業部」がありません。若竹屋では「買う気がない客に商品を売りつける技術」を営業と定義しているので、「私たちは営業活動を行わない」ことにしています(独自の定義なので他社の否定ではありません)。私たちが定義するところの「お客さま」に対する活動を行う部門が、その活動の一つとして販売に携わっています。

その「お客さま部」で1泊2日の合宿会議をしました。
筑後川温泉にある旅館「富久屋」さんの一室を借り、朝から深夜にわたる会議をします。主に次年度の計画に関わる事を扱いましたが、実に楽しく、熱く、充実した会議でした。

僕は「楽しくなければ仕事じゃない」といつも言っています。私たちは、起きている時間の大半を仕事とその準備のために使っています。その時間が、苦痛で辛く耐えなければならないものとしたら、それは人生の無駄使いですよね。そして、そんな仕事を職員さんに強いているならば、成果もなければ発展も望めない、つまり経営としての誤りとも言えるかも知れません。

そんなわけで、今回の会議では「やりたい事をしよう!」をテーマに進めました。ある戦略項目について大きな機構改革に着手したのですが、部員それぞれに「やりたい事・出きること・向いている事」を手を挙げてもらいました。そうして各活動項目に担当を決めたのですが…これが重なる事なくピッタリと納まるんですよね~(笑)

「あれぇ?何でこんなにキレイに担当分けが出来たんだろう?社長、なんか仕掛けがあるんですか?」とスタッフから声が上がります。

「みんなで、それぞれがやりたい事を決めたんじゃないですか♪仕掛けなんてありませんよ(笑)でも見事に納まったね~★」と答えましたが…もちろん仕掛けはあります(笑)

でも仕掛けなんて大したことじゃないです。大事なのは「楽しく仕事をすること」ですもの。仕事や人生は楽しい事ばかりじゃないでしょう。でも、それを「楽しむこと」が出来るかどうか、それは自分自身にかかっているように思います。「楽しむこと」、「好きになること」は人間だけに与えられた素晴らしい力と思っています。

深夜に及ぶ討議・協議・審議の後に、富久屋の温泉につかり、それから酒を呑みながらまたまた激論を交し合う。翌日も夕刻までがっちり会議しましたが、真剣さの中に笑顔の絶えない素晴らしい会議でした。「お客さま部」のみんな、お疲れ様でした!




経営者の妻とは?

2006年12月11日 | ものおもう十四代目
今日は旧浮羽郡の商工会女性部の方たちと「経営計画の必要性」についてお話をしてきました。共に同友会で学ぶ立山自動車立山専務からのご依頼でもあったのですが、色々と考えさせられる機会となりました。

いつも感じる事ですが、総じて女性経営者の方は勉強熱心のように思います。そして若輩の話を真剣に聴いてくださる。事業家に嫁いで来たのであって、自分で起業したわけでもないのに、何故?と思うのです。

私の母もそうです。
母は大分の商家に生まれ育ちましたが、大学を卒業した年に父と結婚しました。世間知らずの箱入り娘だった母も、私が幼い頃から仕事の手伝いをしていました。商売人の家に嫁いできたから、当たり前といえばそうでしょう。しかし私は不思議に思っていました。「私は伝兵衛さんのお嫁さんになったのであって、若竹屋の嫁に来たんじゃない…」と母がこぼしていたのを聴いたことがあったから。

年末の深夜まで弟を身籠った身体で若竹屋の手伝いをしていた母。巨峰ワインの創業期には経理事務をし、昭和57年からは若竹屋の営業部長として第一線に立っていました。母は、受験期の僕よりも遅い時間まで起きて働いていました。私がお会いする「経営者の妻」の方も、(もしかすると「経営者である夫」よりも)仕事熱心な方がとても多いのです。そのモチベーションは何なのでしょうか。どうも男性の持つそれとは違うように思います。

私が若竹屋に帰ってきてから一度その事を尋ねたことがあります。母は言いました。「それは、あなたに若竹屋を継いで欲しいと思ったから。あなたが遣り甲斐を感じる若竹屋とはどんな会社なのだろう、と考えながら働いてきました」と。

母性とは子の喜びを自分の喜びと感じることだとするなら、職員を、商品を、事業を、我が子のように思う女性ほど経営者に向いている人はいないのでしょうね。

商工会の帰り際に「私たちば田主丸のお母さんち思わんね!息子のあんたば何時でん応援するけんね」と言われたのは嬉しかったなぁ。

住吉酒販の新装開店に思う

2006年11月05日 | ものおもう十四代目
若竹屋が日頃大変お世話になっている『住吉酒販』さんが、新たに建物を建て直して新装開店されました。住吉酒販さんは、全国地酒・焼酎の専門店として福岡内外に知られる素晴らしい酒販店です。庄島社長は人情味溢れる魅力的な方で、私も密かに兄と慕っています。

若竹屋「秋の蔵まつり」最終日にお披露目があり、副社長と山川さんが店内試飲会のお手伝いに行っていました。僕は「蔵まつり」の終礼を済ませてから懇親パーティ(住吉日本料理・KOGA)に駆けつけました。酒類小売業は競争も激しく経営環境は楽ではありません。そんな中で大きな投資をして改革に取り組む庄島社長の決意には並々ならぬものを感じました。

事業の永続発展を阻むもののうち、同族企業に多く見られることは「経営者が自己革新をしない」事であると思います。僕はこれを「経営のエンパワーメントが失われる」と表現していますが、要は過去の成功体験にしがみつき、痛烈な自己批判をせず、危機感を覚えないため、自己革新の機会を失っていく、これが同族企業の経営者に起こりがちな問題点のひとつだと思うのです。

上場企業などでは資本と経営が分離しているため、業績悪化を招いた経営者は退陣や降格を株主から求められます。でも同族企業では業績悪化が続いても経営者=オーナーは自ら辞めるとはナカナカ言い出しません。つまり自己革新が行われない社風を経営者自らがつくりあげてしまうのです。

大企業であっても経営者が最大株主(オーナー)であれば同じです。そして自己革新のない組織はやがて衰退します。水島一族の「そごう」しかり、堤「西武」しかり、中内「ダイエー」しかり、です。我々中小企業はなおさら自己革新を必要としているはずです。

その反面、経営者がオーナーであることは長期的戦略に基づいた経営を行えるという利点もあります。子息などの事業承継者がいれば長期的な育成もできます。長寿企業に同族経営が多いことも事実です。

中小零細事業のが永続発展するために、経営の世代交代・事業承継は自己革新の最大のチャンスとも言えるでしょう。そして自己革新する仕組みを経営の中に創ることも重要でしょう。私は創業した「創風工房・桝屋」の就業規則に「代表取締役の定年65歳」と明言していますが、それは自分に対するシバリでもあります。

「人間は衣食満ち足りている時は誰でも善人、苦しい時にこそ真の人間性が問われる」と言われます。けして楽な経営環境ではない中、新しいチャレンジをし、経営の革新を図ろうとする庄島さんの行動力に、また大きな気付きと勇気を頂きました。若竹屋も住吉酒販さんと共に愛と尊敬を分かち合える会社として更に精進しなければ、と思いました。

懇親パーティにはスタッフの皆さんを始め、多くの取引先やご友人の方が集まっておられましたが、光栄にも「締めの挨拶」を庄島さんに指名頂きました。



「ここに集まっている皆さんは、住吉酒販が販売力のある店だから、という理由でお付き合いをしているわけではないと思います。庄島社長はじめ素晴らしいスタッフの皆さんと、人間同士としての信頼関係が根底にあるのです。味に厳しい庄島さんが深夜、私の携帯に電話をかけてきた事があります。なにか酒に問題があったのでは?と恐る恐る受話器をとったところ『林田君、この酒は美味い!よく頑張ったな!』といわれた事があります。私はお礼を言いながら泣きました。そんな庄島さんが、ここにいる僕らはみんな、大好きなんです。」

そんな挨拶をさせて頂きました。住吉酒販の益々のご発展を心から祈念しています。

スマートで雰囲気のある素敵な新店舗になりましたが、庄島さんはこれ以上カッコ良くならないで下さいね。一緒に飲むとき庄島さんばかりモテルの癪ですから(笑)。

クロネコヤマトにクレームを出す

2006年03月08日 | ものおもう十四代目
先日、クロネコヤマトさんにクレームを出した。

僕は「創風工房・桝屋」という酒販店を経営しているが、ここでは毎月全国各地へ耳納山麓の逸品を出荷している。ご希望のお客さまには地域情報を「メール便」で送付したりもする。先月はそんな情報を「クロネコメール便」にて数千名のお客さまにお送りした。その時のこと。

「創風工房」からヤマトへ預けた「メール便」がお客さまの手元に届くのに一週間もかかっていたのだ。関東以西なら翌日に届くはずの「メール便」がなぜ???
集荷に来るドライバーさんに尋ねても言葉を濁してしまう。問合せの電話を入れてもはっきりしない。ついに創風工房スタッフはキレて「これはクレームです!詳細の説明をしに来てください!」と言ったのでした。

結論としてどうゆうことかといえば…宅急便って送り状を書いても、それを電子的に入力(バーコードを当ててピッとやる)しけなければ、「受け付けた」ことにはならないんですと。集荷はされたけど、受け付けてはいなかった、ということでした。一週間ものあいだ、「創風工房・春号」はヤマト集荷場の片隅に忘れ去られていたのでした。

2004年12月31日の大晦日に若竹屋とヤマトさんの間に、ある出来事がありました。ささいなエピソードですが、それは僕がヤマトさんとお付き合いをしている理由の一つです。だからやや過剰に反応したかもしれませんが、今回の出来事には学ぶことが多くありました。

クレームと苦情は違う。
クレームの対応を間違うと苦情となり、
対処を間違うと事故になる。

クレームはお客様が困っているから出すサインなんだ。
お客様は謝罪してほしいんじゃない。
困っている事を解消してほしいんだ。

だから全力で対応する。
するとお客様から支持していただける。
真因の追求に努め同じ問題を起こさない。
すると会社が強くなる。
クレームは会社を良くしてくれる天の声なんだ。

創風工房のスタッフがしみじみと呟いた。
「クレームを出すお客様の気持ちがよくわかりました。創風工房でもクレーム対応を見直します。」
うん、その気づきが大事なんだよね。

萩で維新をおもう

2005年06月22日 | ものおもう十四代目
昨夜のキャンドルナイトの後は、旧知の堀田さんらと湯田温泉の居酒屋で打ち上げ。今日は萩に向かいました。

ご存知の通り、萩は明治維新の志士たちを多く輩出したまち。僕は司馬遼太郎の「世に棲む日日」を読んで以来、高杉晋作のファンなのですが、萩の生家を訪ねました(いいんです、ミーハーで)。思ったより質素な建物(木戸孝允旧宅は凄く立派だ)。武家屋敷が多く残る城下町はとても美しかった。夏の暑い日ざしと静謐な空気。道をゆく小学生たちの笑い声が響く。

あの子供たちは明倫小学校の子供たちだろう。明倫小は吉田松陰も学んだ藩校・明倫館の跡で、驚くほど立派な木造建築だ。こんな町に過ごした子供たちは幸せだなぁ。ここは平成と江戸時代とが奇妙なバランスで共存している。

日本人にとって江戸時代は異郷ほどに遠い。そう感じるほど明治維新を境に日本は歴史の繋がりを失っているように思う。「正しい歴史認識」が話題になる昨今だが、明治以降の戦争を評価する前に、明治維新をもっと学べばいいんだ。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」
「おもしろきこともなき世をおもしろく(すみなすものは心なりけり)」
松陰も晋作も明治を見ずに散っていった。遺った言葉ではなく、眼に見えぬ生き様にこそ響く心を持ちたいと思った。

若竹屋の使命と価値

2005年06月12日 | ものおもう十四代目
12日に田植えをしたメンバーに「子狸の会」のみなさんがいます。その会にまつわる話を書かせてください。

平成12年2月の事です。「子狸の会」の会長を務めていただいているN様と奥様は、もう何年も北九州の仲間たちとご一緒に若竹屋へ酒造り体験に来られていました。ご夫妻そろって田植えをし、夏には草取り、秋になって稲の刈り取りに来られるのです。平成11年の夏のある日、草取りを終えて「和くら野」へ食事にお越しになったN様ご夫妻からこんな事を言われました。

「林田さん、ありがとう。僕たちは若竹屋さんと出会えてとても幸せです。素敵な仲間たちと出会い、若竹屋さんのお酒を知り、ご好意で田植えから酒造りまで体験させていただいている。自分の手で植え、刈り取った米で、酒を造り味わう。こんな贅沢は他にありませんよ。皆さんの顔を思い浮かべ飲む酒の美味いこと。妻と一緒に、小さな列車に乗って田主丸を訪れるたびに、なんて幸せなのだろうと思わずにいられません。」夫婦そろって日焼けした顔で笑いながら、そう語りかけられました。

年が明けて1月7日に仕込みに来られ、翌2月11日に待望の酒搾りに来られましたが、N会長ご夫妻は用事のため一日の作業を途中で止め、仲間達より一足先にお帰りになりました。そしてその日の夕方に、突然、N会長の奥様はお亡くなりになったのです。

「林田さん、本当にありがとう、本当にありがとう。若竹屋と出会えて妻は幸せでした。僕ら二人の人生に豊かさというものを若竹屋は与えてくれました。だからこそ、もっと若竹屋の酒を妻と一緒に飲みたかったです」
お悔やみの席でN会長が言ったその言葉を私は忘れる事ができません。

初代若竹屋伝兵衛は何としても酒を造りたかった。美味い酒を造り、お客さまに飲んでもらいたかった。そしてお客さまと共に、職員さんたちと共に、喜びを分かち合いたかった。その創業の理念と志は、これからも変わることなく受け継いでいかねばなりません。そしてそんな思いを込めて醸す酒を通して、私たちは人々に活力を与え、喜びと楽しさを提供し、地域社会に貢献するという使命があります。

300余年にわたり若竹屋が存続して来れたのは、そんな志と使命を燃やしつづけてきたからであり、それを実現してきたのはまぎれもなく若竹屋に勤めてきた職員の皆さんの活動であり、全員のチームワークが産み出した力なのです。N会長ご夫妻はそこに若竹屋の価値を感じていただいていた、と思うのです。

万事困難は己の心中に有り

2005年06月08日 | ものおもう十四代目
今日は浮羽町内の酒販店廻りをしました。どの酒販店を廻ってもお店の人の口から漏れるのは「売れなくて苦しい」という言葉です。確かにこの不況の中での実感に違いありません。けれど、やっぱり、ちょっと残念な気持ちがしました。

今から8年前にハウステンボスの創始者である神近義邦さんから頂いた本「ハウステンボス物語」に一筆メッセージを書き添えていただいた事があります。そこにはこう書かれています。「万事困難有己心中」。神近さんは定時制高校を卒業後、長崎県西彼町役場に就職しました。

神近さんは一職員に過ぎないにもかかわらず町づくりについて町長と何度も対立し、とうとう町役場を辞めてしまいます。世代が交代しながら1000年を生き続ける街を創る。それが神近さんの壮大な夢でした。誰が聞いても馬鹿げているとしか思えないような構想を神近さんは幾度の困難を乗り越えながら実現に向けて活動してきたのです。

「メジ事件」と言われる有名な話があります。ハウステンボス宮殿にレンガを貼りつけているときオランダの宮内省がチェックに来ました。するとレンガとレンガの間のメジが本物の宮殿よりも2ミリ広いと判った。レンガは既に200平方メートル張られていました。しかし神近さんはレンガの張替えを指示しました。4000万円の費用をかけて、わずか2ミリの違いを直した。これにはオランダ政府も驚いたそうです。以後、オランダ女王はハウステンボス構想に全面的な支援を約束するのです。

本物を追求する神近さんの信念がオランダ女王をまで動かした、という事は僕達とはあまりにかけ離れた話かもしれませんが、彼の「生き方」に学ぶものは多くあります。何事も困難とは己の心の中にある。自分自身に限界をつくり言い訳をしていては成し遂げられるものは何もない、そう神近さんは言いたかったのではないでしょうか。

私たちにも若竹屋として、酒を通して人々の心を豊かにする、という信念と使命を持っています。酒販店さまたちが「若竹屋のお酒を売っていて良かった!」と思って頂く仕事をもっともっとしなければならない、そう思った一日でした。


「お前、耳納連山は好きか?」

2005年06月06日 | ものおもう十四代目
「お前、耳納連山は好きか?」
そう、祖父に聞かれたことがある。私が若竹屋に入社して間もない頃だ。若竹屋の跡取なんかなりたくない、そう思って田主丸を飛び出した私は東京で気ままな暮らしをしていた。夜学で大学に通いながら昼間は様々なアルバイトを経験した後、広告代理店に入社したが、やがてあるきっかけから若竹屋の後継を決意し西武百貨店で修行をした。あしかけ9年の東京生活を終えた私は、青雲の志を持って若竹屋に入社した。

「若竹屋を日本一の蔵元にする」そんな志も思いばかりで、明確なビジョンを描けないまま目先の、小手先ばかりの変革に手をつけたところで思うように進まない苛立ちを抱えていたときの事だ。まだ田主丸に居た祖父を尋ねて、我社の現状や進まない変革についてなど、愚痴をこぼした。

「日本一の蔵にならんといかん。局の鑑評会で局長賞ば取って、全国でも金賞に入る。そして東京の一流の専門店で取り扱ってもらって、有名飲食店でお客様に飲まれるようにならんと。いつまででん、頭ば下げて売りこまんと売れんような酒じゃイカンとやないか?俺はそん為に一生懸命しよるとに、誰んわからん。俺のしよるこつば理解せん。このままじゃつまらん」

私の話をじっと聴いていた祖父は、穏やかな顔をして口を開いた。
「そうか、それは大変の。ところで、お前、耳納連山は好きか」
祖父は何が言いたいのか。急に話を変えられて気がそがれた。祖父の部屋は南向きに大きく窓が開かれており、そこから青々とした耳納(みのう)連山が見えていた。

「そりゃ、小さか頃からずっと見て育った山やけん、好いとるよ。どれだけ眺めていても飽きん」
「そうか。俺もこの山が好きや。浩暢が日本一になりたい、て言うのは、山で言えば富士山になりたいちゅうことやろう。お前は富士山と耳納の山とどっちが好いとるか」

「それは…耳納連山のほうが好いとる」
「そうか、そうか。俺も耳納の山のほうが好いちょる。耳納の山は美しかな。たしかに富士山は日本一の霊峰ばってん、たった一人で立っておる。耳納の山の美しさは、峰峯が連なって屏風のようになっている姿や。あの頂の一つ一つは若竹屋の代々の蔵元なんぞ。あの峰裾のひとつひとつが若竹屋の職員なんぞ。お前は、たった一人で日本一の富士山になりたい、そげん言いよる様に聞こえるの。のう浩暢、お前、耳納連山は好きか」

祖父の話を聴きながら、涙を流していた。若竹屋十四代目の後継ぎとして知らず知らずに肩肘を張っていたのかもしれない。俺が、俺が、と自分の事ばかり愚痴をこぼしながら仕事をしていた。早く周囲から認めてもらいたい、そんな思いがエゴとなって日本一という言葉に囚われていた自分がいた。

祖父は中学を卒業してすぐ、早逝した父親にかわり若竹屋の十二代当主を継がねばならなかった。また体が弱く兵役に取られる事のなかったこと、国の為に働けなかったことも含めて周りからやっかみ半分、陰口を叩かれていた事もあったのではないか。しかし、そんな境遇の祖父だったからこそ、自分一人の力で若竹屋を続けてきたのではない事を誰よりも感じていたのかもしれない。

いま祖父は、大好きだった耳納の山の頂きの一つとなって若竹屋を見守っていてくれている。
若竹屋OB会で懐かしい顔に逢った今日、そう思った。

中小企業憲章を制定しよう

2005年06月03日 | ものおもう十四代目
今日は「中小企業憲章制定にむけた学習運動」に出席してきました。

以前、「欧州地方自治憲章」を九州大学大学院の木佐教授から学びましたが、欧州では21世紀の経済発展と雇用の担い手は中小企業にある、と「欧州小企業憲章」というものも制定されています。

日本では、中小企業に対するイメージがネガティブですよね。大企業になれない会社、合理的でない組織、産業発展の残滓、などなど。それは過去の政府の産業政策から産み出されたものでもあるのです。実は1963年まで日本の対外貿易輸出高は中小企業がその半数を占めていました。

その63年に中小企業基本法が出来たのですが、それは輸出振興を大企業にシフトする内容になっていたのです。それ以来近年まで、中小企業は大企業のもとで発展するもの、部品は中小企業が作り組立ては大企業がするもの、といった産業構造で経済が進んできました。

バブル崩壊以降、この産業構造が破綻した。大企業は下請けや系列によらない資材調達をし、中小企業の市場にまで降りてきて競合するようになった。僕たち中小企業は、大企業と同じ土俵で経営を行わなければならない。そんな時代にこれまでと同じく大企業中心の政策では、日本の活力が失われるのです。つまり、雇用の70%を担い、事業所の99%を占める中小企業が経済と環境に与えるインパクトを正しく認識することが政府の課題なのです。

そこで日本でも「中小企業憲章」を制定しようという運動が始まっています。それは、我々中小企業家は日本経済・地域社会の発展に貢献しよう、そして同時に我々の経営環境(法律や政策)の改善を主体的に行おう。さらには国民の意識を変革し、創造者や挑戦者に対する社会の評価を高めて行こう、と宣言するものになるはずです。

言ってみれば、式典での席順が国会議員・県議・大企業・中小企業と並ぶ序列、そこに疑問を感じない僕たちの意識改革をしようという(ちょっと乱暴な言い方かな)中小企業の応援宣言。これからの動きに注目してみてください。