若竹屋酒造場&巨峰ワイナリー 一献一会 (十四代目日記)

何が酒の味を決めるのか。それは、誰と飲むかだと私は思います。酌み交わす一献はたった一度の人間味との出逢いかもしれません。

朗読者 

2007年12月24日 | 読んでる十四代目
朗読者

新潮社

ベルンハルト シュリンク (著)
松永 美穂 (翻訳)
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ちょっと前の作品なんですが、ふと読み返したくなって書棚を探したんですけど、見つかりません。ああ、友人に貸しっ放しだった、と思い出し余計に読み返したくなりました。

学校の帰りに気分が悪くなった15歳のミヒャエルは、母親のような年の女性ハンナに介抱してもらい、それがきっかけで恋に落ちる。そして彼女の求めに応じて本を朗読して聞かせるようになる。ところがある日、一言の説明もなしに彼女は突然、失踪してしまう。彼女が隠していたいまわしい秘密とは何だったのか…。数々の賛辞に迎えられて、ドイツでの刊行後5年間で、20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超える大ベストセラーになった傑作。(AMAZON Datebase)

僕は最初、この本の装丁に惹かれて手にしました。後で知ったことですが、この本は新潮社の「新潮クレスト・ブックス」という、海外作品の翻訳ものシリーズの中の一冊として刊行されています。このシリーズの考え方が面白いですね。

・担当者が「よい作品」と思うものを厳選する
・編集者でも翻訳者でも、ともかく誰かがほれこんだ作品であること
・日本では初紹介の作家であること
・あるいは紹介されていてもまだ読者にうまく浸透していないこと
・なんだか売れているらしい、というような理由では扱わない

さらに、「持ち重りしない軽くてしなやかな本に」というのが造本のコンセプトだそうです。本文用紙にはフィンランドの輸入紙を使用し、表紙には独特の手触りとしなやかさをもつ新しい特殊紙を採用。製本も、従来は手作業のため高コストだった仮フランス装の機械化を、独自に開発したというこだわり方。

ちなみに、仮フランス装とは、四周を折り込んだ印刷表紙で化粧断ちした糸綴じの中身をくるんで小口に口糊を入れて仕上げる製本様式です。どんなものか知りたければこのシリーズの本を手にとって見てください。

そして気になる装丁です。クレジットには新潮社装幀室となっていますが、背景と立体作品は三谷龍二さんによるものだそうです。この人は伊坂幸太郎の「重力ピエロ」「ラッシュライフ」の表紙作品なども手がけているのですが、実は工芸家・木工デザイナーとして著名な方です。

まず手にとってもらう…このために高い努力をしている点。「よい作品」とか「惚れこんだ作品」といった(製作者の独善であれ)ものを「商品」にするプロセスは興味深いです。

結局、読んでみた (ウルトラ・ダラー)

2006年06月16日 | 読んでる十四代目
菊美人の江崎さんが夜中にワケのわからん電話してきたという話、の例の本デス。結局、気になって読んじゃいました…。

う~ん、僕にはビミョ~。国際派サスペンス(というジャンルがあるか?)なら、服部真澄(デビュー作は「龍の契り」、諜報モノなら「鷲の驕り」)や帚木蓬生(諜報モノの傑作「逃亡」がある)のが僕の好みです。

や、別に江崎さんにケンカ売ってる訳じゃないですから…。

今村昌平監督がお亡くなりに… (楢山節考)

2006年06月01日 | 読んでる十四代目
 
今日の新聞で映画監督の今村昌平さんがお亡くなりになった事を知りました。

僕は今村監督の「楢山節考」が大好きです。日本映画の中で最も好きな作品の一つです。公開された'83年には観ていなかったのですが、経営の師である明賀先生に薦められてビデオで観たのでした。もう15年ほど前のことです。

物語は、姥捨て伝説をモチーフにしたものです。山深い寒村に生きる人たちの、貧しくも明るい、そして切ない姿を描いています。

老いた者は子に背負われて楢山に捨てられなければならない。そんな掟のある村にも春が来れば祭りもあるし、若者たちは恋にも落ちる。坂本スミ子演じる「おりん婆さん」は間もなく山に行かねばならない。長男(緒方拳)には働き者の嫁(あき竹城)が来たのでひと安心。

次男(左とん平)は稼ぎもなく醜男だから嫁の来てもないから心配だ。コイツは憧れの女(確か、倍賞美津子)に夜這いをかけるも失敗するので、仕方なく女の飼い犬を犯す始末(笑)。あんまり可愛そうなので、おりんは友だちの婆さん(清川虹子!)に相手を頼む。「もう長い事使ってないで、役に立つやら…」と言いながら引き受けたりする婆さん(爆笑ものです)。

いよいよ、おりんも楢山へ向かわねばならない日がやって来た。「俺を山へ連れて行け」と母は自ら言う。小さく軽くなった老いた母を背負い、山へ向かう長男。道すがらに母との思い出や苦しい生活の日々が蘇る。

「ここでいい」と死地を定めた母。ひどく寒い。母を捨てることと、村の掟、つまりは貧しさとに葛藤する息子。そんな息子に向かって深々と合掌する母。振り切るように帰途へつくなか、とうとう雪が降ってきた。…たまらずに母を置いた場所へ戻る息子…。

もう、何と言うか、泣けるんです。露骨な性描写や残酷に見えるシーンが好悪の分かれる所かもしれませんが、人間への今村監督の深い興味と讃歌を感じました。自然の厳しさと人間のたくましさ、あらゆる生命の循環が価値であることをこの映画は教えてくれました。

今村監督のご冥福をお祈りします。

僕のまわりの本好き

2006年05月11日 | 読んでる十四代目
僕の友人には本好きが多い。

今日、23:30に携帯が鳴った。
菊美人江崎さんから。
こんな夜中に、何の用?
といぶかしく思って電話を取れば…

「おおっ、林田君!ウルトラ・ダラー良かったよ!」
 へ?江崎さん?どうしたんですか、こんな時間に…
「いやな、ウルトラ・ダラーよ!良かったんだよ!」
 ??何が良かったですって??ウルトラ??
「ウルトラ・ダラーよ!今年のベストワンだな、これ!」
 ??あの、何の話ですか??
「いや、夜中にすまんな!とにかくそういうわけで、おやすみ!」

手嶋龍一の小説「ウルトラ・ダラー」のことと思い至ったのは数分後。
(夜中に携帯で言いたいことだけ喋ってくれた)江崎さん推薦!
ぜひオススメします。読後の感想はいりません…。

観てきました、「男たちの大和」

2006年01月22日 | 読んでる十四代目
時折、先輩経営者方から「この映画、観ておくといいよ」とススメられることがあります(「ラストサムライ」もそうして観た映画でした)。

さて、「男たちの大和」です。
泣きました。泣かされました。

昭和20年4月6日、沖縄に向けた「水上特攻」の命を受けた大和は、召集後まもない10代半ばから20代の若者たちが大半の3000余名の乗組員たちと共に出撃、翌7日、アメリカ 軍艦載機延べ300機の激しい爆撃と、魚雷攻撃を受け、午後2時23分、轟沈した。その出撃前後の大和を、年少兵とその上官である下士官たちの視点で描いた作品です。

年少兵の良き上官であり、兄貴分でもある森脇二曹(反町隆史)が、年少兵たちの死地へと向かう勇ましい覚悟を聞いて、曇った顔をします。「あんな子どもが、死の覚悟なんて…死の意味がわかっているとは思えん…」

沖縄出撃前夜に年少兵を集め森脇は伝えます。
「万一、総員退去の命が出たらすぐに艦を離れろよ。その時は、戦いは終わりだ。艦を離れて、生きろ…」
死を前に森脇は少年たちに「生」を語りかけました。

最後の上陸休暇で母親と再会した年少兵・スミオ。レイテ沖海戦で兄を亡くした彼はその仇を討つ覚悟で大和に乗り込みます。兄の死を母に告げ、自分もまた敬礼とともに母親へ別れを告げます。しかし、立ち去ろうとするスミオに追いすがり、慟哭する母。「スミオ…死なんといてくれ…」

沖縄まで片道分しか燃料はなく、援護する航空隊もない。自分達の死に行く意味はいったい何なのか…。迷い、言い争う乗組員たち。男たちの中に臼淵大尉(長島一茂)が割って入ります。

「進歩のない者は敗れるのが歴史の常だ。日本は進歩という事を軽んじ過ぎた。精神論にこだわって本当の進歩というものを忘ていたのだ。敗れて目覚める。それ以外に日本は救われない。我々はその先導になるんだ。日本の未来のために散る。まさに本望じゃないか」

残された家族は戦地へ赴く息子を、夫を、見送りながらも必死に願います。生きて還って来てと。兵士は守るべき家族のために生ではなく死を覚悟する。死の意味を見い出そうともがく。残るもののその姿に、向かうもののその姿に、涙します。

2002年の夏、知覧を訪ね、知覧から大川までの150キロを歩いたことがあります。少年特攻兵たちが遺した手紙の文面が歩いている間中、頭から離れませんでした。映画を観ている間、あの夏の暑さを想い出していました。


ぼくは悪党になりたい  笹生陽子

2005年07月04日 | 読んでる十四代目
ぼくは悪党になりたい

角川書店

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恩田陸の「夜のピクニック」がまた最近売れているらしい。以前、その本のことを書いたことがあったので、自分のブログを読み返してみた。すると、『(高校生青春小説で)昨年は当たり年とでも言いますか、楽しく読めた作品が2編もありました』と書いてあるではないか。もう一作を紹介してなかったな、と思ったので改めて書きます。

タイトルに惹かれて手にした本だったけど、今にして思えば山田詠美の「ぼくは勉強が出来ない」と語感がカブってる。そういえば設定も何となくカブってる。

自立とか自律とか人生とかを考える。時間だけはたっぷりあるから、もう子供じゃないから、けっこう深く考えてる。けど普通に自分を取り巻く環境が狭いから、ジレンマというか、もどかしさというか、壁にぶち当たる。もっと小さい時は、大人って完璧だと思ってたけど、もうそんなに単純じゃない。だから本を読んだり、音楽を聴いたり、友達やガールフレンドの相談に乗ったり、乗られたり。そんなことして「自分探し」をする。そんな高校時代…、過ごしてませんでした?

「自分探し」って青春のキーワード、なんか恥ずかしくって懐かしい。この作品は、そんな気恥ずかしさに包まれながら一気読みをするのがいい、と思う。

ヨーロッパ退屈日記 (伊丹十三にはまる)

2005年07月02日 | 読んでる十四代目
ヨーロッパ退屈日記

新潮社

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最近、ハマってるのが「伊丹十三」。

きっかけは伊丹監督作品「スーパーの女」を最近、観てから。それ以来、伊丹十三ってどんな人だっけ?と気になってた(伊丹映画「お葬式」と「マルサの女」は観たことがあるケド…)。すると書店の文庫新刊コーナーにエッセイがあるのを発見。「ヨーロッパ退屈日記」と「女たちよ!」の2冊を早速購入。おどろいた!おもしろかった!

伊丹十三は僕の親父と同じ生まれ年。上記のエッセイは彼が30代に書かれたものだそうで、親父の青春時代の世相ってこんなんだったのか~、という面白さ。例えば、スパゲッティ(パスタとは言わないんだな)の正しい食べ方について。『スパゲッティとソースを混ぜあわせたらフォークでスパゲッティの一部分を押しのけて、皿の一隅に、タバコの箱くらいの小さなスペースを作り、これをスパゲッティを巻く専用の場所に指定する』。そうして右手に持ったフォークで、くるくると巻いて食べるのが正しいのだ、と。

万事この調子で面白い。湯で加減はアルデンテが本物で、『スパゲティー・ナポリタンなんてものは、いためうどんで、あんなものをイタリアンと言う人は、スーヴェニア・ショップで絹のキモノ・ドレスを買ってハイヒールで街を歩くようなもの』と書く。今でこそ普通に使われるアルデンテという言葉でも、当時の人は、それ何だ?と思ったろうねえ…と笑いがこみ上げる。

一方で僕の同年代の人間による文章なんだと思って読んでみても、際立つ表現力。単に「スタイル」として物事を断じるのではなく、「生き方」として本気で書いてる(ハズ)…なのに洒脱な文章。参りました。いきなり僕の中で、エッセイスト首位!です。俳優、デザイナー、エッセイスト、雑誌編集に映画監督と、才人と呼ぶにふさわしい人だけど'97年12月に自殺した。

伊丹の妻、宮本信子さんはドラマの撮影で巨峰ワインに来たことがあって、お会いしたときの感じがもの凄く素敵な方でした。我々を始め、スタッフの方にも優しい気遣いを見せる様子に、真に実力のある人間の謙虚さを見たように思います。

峠 司馬遼太郎 (指を痛めて思い出した)

2005年07月01日 | 読んでる十四代目
峠 (上巻)

新潮社

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←3日前ドアに右手中指を挟んだ。みるみるうちに腫れて爪の内側が黒ずんでいく。余りの痛さと間抜け具合に笑い泣きをしました。そんな痛みの中、ふと思い出したのが、司馬遼太郎「峠」の一節。

越後長岡藩士・河井継之助が備中松山藩・山田方谷を訪ねる途中、京に立ち寄る。そこで出逢った不思議な女性・織部と一夜を共に。房事の後に織部が継之助の小指をきゅっと折る。痛みに耐えながら継之助が思うこと…。

(人間など、他愛もない)
と継之助が思わざるのをえないのは、そのわずか一本の小指の痛みで、いかに深刻な、あるいは深遠な、そういう思案も煙のように消え、全身の関心が小指にあつまってしまう。となれば、つまり小指一本でその思念が雲散霧消するとなれば人間ははたして継之助が考えるほどに高いいきものなのであるか、どうか。

「峠」は司馬遼太郎作品の中で「世に棲む日日」についで僕の好きな本です先日、萩へ行ったので、また改めて「世に棲む日日」を読み返そうと思っていたのですが、書棚から手に取ったのは「峠」になってしまいました。先月、久留米JCのOB・柳田さんと飲んでる時も河井継之助の話になったのもきっかけか。「今読み返すと『峠』はやっぱり面白いよね、初めて読んだ時の感動とともに、別の気付きがたくさんあったよ」と柳田さんがいいます。

同席していた高知同友会の梼原君が、「僕はホンダの藤沢武夫が書いた『経営に終わりはない』が座右の書です」なんて言うものだから、また盛り上がって。どちらも僕の大好きな本。気の会う仲間は同じものを読んでるんだなぁ、なんて大笑い。

さて、河井継之助は幕末の人物なのですが、坂本竜馬や西郷隆盛のように知られた人物ではありません。吉田松陰や高杉晋作のように「陽明学」に学んだ人物。尊皇攘夷という世の流れを「流行」と断じながらも、封建制度の崩壊を予見している。長岡藩の財政建て直しに辣腕を振るい見事に再建を果たすが、それは同時に士制の存在意義を失くすことでもあった。様々な矛盾に悩み苦しみながらも長岡藩士としての生き方を貫こうともがく。無骨で豪放磊落、奇人だがなんだか美しい。司馬遼太郎の描く継之助はなんとも魅力的な漢なのです。


夜のピクニック  恩田陸

2005年02月19日 | 読んでる十四代目
夜のピクニック

新潮社

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「高校生が主人公の青春小説」というジャンルがあるとすれば、この作品は最近で一番の出来じゃないかと思う。「高校青春小説」(なんてカテゴリーはなかろうが)で最初に面白かったと感じた本は、五木寛之の「青年は荒野をめざす」('74)かな(「青春の門」は高校時代だけで完結していないからここでははずす)。筒井康隆の「時をかける少女」('76)シリーズもはまりました。が、意外と現役高校生が立派に主人公を務めている作品って多くはない。

山田詠美の「僕は勉強が出来ない」('91)、金城一紀の「GO」('00)は佳作だ。金城作品は「レヴォリューションNo.3」('01)も「フライ,ダディ,フライ」('03)も面白い。石田衣良の「池袋ウエストゲートパーク」('98)は面白いけど、主人公が高校生じゃないから、残念! 「娼年」('01)は大学生だし、「4TEEN」('03)は中学生だし石田作品はなぜ高校生が主人公になれない?

ところが昨年は当たり年とでも言いますか、楽しく読めた作品が2編もありました。その一つがこの「夜のピクニック」恩田陸。

夜を徹して80キロを歩き通すという、高校生活最後の一大イベント「歩行祭」。その「歩行祭」での、たった一夜の物語をここまで読ませる作者の力量には驚き。10代には10代の悩みがあるけど、今の僕にはその時の気持ちを振り返ることもないし、ましてや懐かしいなんて思いもしない。けど、この本を読んで、…失った、過ぎ去った、忘れてしまった…、そんな時間を思い出しました。

おにたのぼうし

2005年02月03日 | 読んでる十四代目
おにたのぼうし

ポプラ社

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節分にちなんで…。 
絵本では文と絵の組み合わせも楽しみの一つです。僕が泣きながら読む(笑)「泣いた赤おに」は名作童話の古典とも言える作品なだけに、様々な方が絵を描いています。こどもが借りてきたものと、僕が子供の頃読んだものと、絵柄が違うので新鮮に読めた、ということもありました。

絵本で最も有名な画家作家のひとりが、いわさきちひろ。素晴らしい作品を幾つも遺していますが、中でも僕のお気に入りは、「おにたのぼうし」。

ちひろは西洋で発達した水彩画に、中国や日本の伝統的な水墨画の技法を生かして、独特の水彩画を生み出していますが、僕は彼女の絵に言いようのない淡いさみしさをいつも感じてしまいます。「おにたのぼうし」は何とも切ない物語とちひろの絵が素晴らしく一体となっています。

 「おにた」は、くろおにの子です。
 心優しいおにたは節分の日にこれまでいた家を追い出されます。
 雪の中をようやく見つけた次の家。とてもまずしそうな家です。
 そこには病気で寝ているおかあさんと、おんなのこが住んでいました。
 額に乗せたタオルを換えているときに、おかあさんがふと眼を覚まします。
 「おなかがすいたでしょう?」
 「いいえ。さっき食べたの。
  知らない男の子が節分でごちそうが余ったって、持ってきてくれたの」

 おにたはなぜか背中がむずむずして、居ても立ってもいられなくなりました。
 台所には食べ物は何一つありません。ありもしない話をしやがって…。
 おにたは外に飛び出し、しばらくして戻って来ます。
 麦藁帽子を深くかぶったおにたは、家の戸を叩きました。
 「節分だからごちそうが余ったんだ」とおにた。
 「あたしにくれるの?」女の子の顔が明るくなりました。
 「あたし、まめまきしたいな。
  だってお母さんの病気がこれ以上悪くなってほしくないから、
  鬼が来ないように」

 その言葉を聞いたおにたは、悲しそうにいいました。
 「おにだって、いろいろあるのに…」
 そうしておにたの姿はふっと消えました。麦藁帽子だけを残して。
 おんなのこは、おにたが持ってきた黒豆を、
 お母さんが目を覚まさないようにそっとまきました。
 さっきの子はきっと神様だわ。だからお母さんも、もうすぐよくなるわ。
 そう考えながら、おんなのこは静かに豆をまくのでした。

東京の練馬区下石神井に「ちひろ美術館」があります。学生の頃に行った事がありますが、素敵な美術館です。長野の安曇野にも美術館が出来ているようですね。一度行って見たいものです。

日本を楽しむ年中行事 三越編(かんき出版)

2005年02月02日 | 読んでる十四代目
日本を楽しむ年中行事

かんき出版

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この本によると、節分とは「季節の分かれ目」の意味で、立春・立夏・立秋・立冬などの季節の変わり目の前日を言うそうな。今では立春の前日(2月3日頃)の意味で使われる。

この日の夕暮れに、イワシの頭をヒイラギの枝に刺し家の軒先につるしたり、神社や寺院では年男が、家庭では父親が「福は内、鬼は外」と唱えて豆をまき、災いが家に入り込むのを防ぐ風習がある。

関西では「恵方(えほう)巻き」という太巻きを食べる習慣があります。太巻き寿司を切らずに丸ごと一本かぶりつくことから「丸かぶり寿司」と言います。食べるときはその年の恵方、つまり良い方角を向いて食べます。この習慣は古くから花柳界でもてはやされていましたが、大阪の老舗寿司「本福寿司」などが中心となって商売に結びつけたのが広がるきっかけとなったそうです。

今年はローソンの西見君の営業で、恵方巻き3本買いました。3日の朝に田主丸店に取りに行くことになっているので、昼食は今年の恵方(西南西)を向いてコレをかぶりつくことにします。

となり町戦争 三崎亜紀

2005年01月30日 | 読んでる十四代目
となり町戦争

集英社

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京都会議の往復した新幹線の中で読みました。

西日本新聞社の久留米総局へ新年のご挨拶に伺ったとき、隣のツタヤに車を止めた。ついでに立ち寄って新刊コーナーを眺めて手にした本。しばらく積みっ放しで忘れてたのを、京都行きで手ごろに読めそうな雰囲気だったから連れて行った。

まず設定が奇抜で引き込まれる。なにせ町の事業として、となり町と戦争が始まるのだから。事前に戦争事業計画を提出し、となり町と協議の上、共同で事業は進められる。戦闘区域と時間帯は決められているので、普段の生活にはまるで戦争のにおいがしない…。一風変わったSFなのかな、とも思ったが、読み進めるうちに主人公たちの持ついらだちや、哀しみといった感情に共感を持った。なるほど、これは文学作品だ。

著者は久留米市役所の現役職員なんだそう。第17回小説すばる新人賞を受賞した作品です。

サーカスのライオン 絵本

2005年01月09日 | 読んでる十四代目
サーカスのライオン

ポプラ社

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僕は絵本も大好きです。
今考えると、僕の活字好きは幼い頃に母が読み聴かせてくれた絵本に端を発しているのでしょう。その時代にせがんで読んでもらった絵本たちが今、手元にあったらとても幸せなのに。そう思って最近少しづつ、記憶を辿りながら題名を忘れた絵本を探し買い集めています。

「サーカスのライオン」は僕が幼い頃に読んだものではありません。僕の子供たちが町の図書館から借りてきたものでした。読み進めるうちに涙が溢れ、何度も言葉に詰まってしまい、そんな僕に何か不安でも感じたのか子供たちまで泣き出してしまいました。

 サーカスのライオン「じんざ」は老いて少し疲れています。
 ある日じんざは、
 サーカスが好き、なかでもライオンが好きなんだ、という少年と出会います。
 じんざは少年の言葉に励まされます。それから毎日ステージ裏を訪ねてくる少年。
 おこづかいが貯まったから明日はライオンの火の輪くぐりを見に来るよ、と少年。
 じんざの身体に力が沸いてきます。
 ようし、明日は若い時のように火の輪を五つにしてくぐってやろう。
 その夜更け、消防車のサイレンの音が、少年の家のほうから聞こえて来ます。
 じんざは檻を破り少年のアパートへ駆けて行く。
 ごうごうと燃えるアパート。
 アパートに取り残された少年。
 火の輪をくぐる勢いでアパートへ飛び込むじんざ。
 じんざの力で少年は助け出されます。しかし、じんざは…。
 次の日、サーカスでライオンの曲芸は寂しかった。
 五つの火の輪は燃えていたけれど、くぐりぬけるライオンがいないから。
 それでもお客は一生懸命に手を叩いた。
 ライオンのじんざがどうして帰って来なかったかを、
 みんな知っていたから。

人はなぜ涙を流すのか。自分が色んな意味の涙を流すようになって分るようになる。成長した子供たちがいつかまたこの絵本を読んだときに、ほろほろと涙を流してくれたらいいなあと思うのです。

はみだしっこ 三原順

2004年12月22日 | 読んでる十四代目
 
大釜君から聞かれた。「林田さんって漫画とか読むんですか?」
読みます!好きです!僕には妹が二人いるので、実は少女漫画にかなりハマっていました。最初は妹たちが買っていた本を読んでいたのですが、そのうち自分でも買うようになって(笑)。一番ハマったのは白泉社が創刊した「LaLa」でした。創刊が76年だから、当時11歳からの少女漫画ファンです。

最も好きな作品と聴かれれば、難しいけど…三原順さんの「はみだしっ子」でしょうか。「花とゆめ」誌に連載された作品ですが、それぞれに心に傷を負って彷徨う4人の少年たちの生き様、鋭い人間観察、ウィットに富んだユーモアなどで当時、圧倒的な支持を得ていた作品です。

大釜君に「三原順って知ってる?」と聴いたら、「いいえ?誰ですか?」って。当たり前か。95年にお亡くなりになっているので、新しい作品もない。でもね、三原順の作品はどれをとってもハズレはないから、一度読んでみてよ。

パイロットフィッシュ  大崎善生

2004年10月20日 | 読んでる十四代目
パイロットフィッシュ

角川書店

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10/2にも取り上げた大崎善生だが、今年の8/1に日経新聞・第40面「文化」欄で掲載された彼の文章は泣かずにはいられない素晴らしいものだった。うっかりしたことに、その記事を切り取りそこなった。機会があればまた探し出して読みたいと思う。

白石一文の「一瞬の光」もそうなんだけど、この作品も40代半ばの著者が40歳前後の人物を主人公にしている。二つの作品には共通した感覚が結構あるように思う。それは「働き盛り」と呼ばれる年齢、だけど人生の折り返しに至った「若さ」への憧憬、それが「恋愛」に投影されて物語になる、そんな感じ。そんな物語が面白いと感じるのは、やはり僕がその年齢にあって、主人公たちと同じように悩んでいるからなんだろう。

「若さへの憧憬」とは大袈裟だけど、20代の頃には対立していた「個と公」の関係を摺り合わせる術を身につけること、敏感すぎた他者への畏れをパターン化した人間像に当てはめて希釈すること、持て余していた性欲が承認の欲求へと変化していくこと、そんなことに寂しさと充実感のアンビバレンツな感覚を覚える世代なのだと思う。