若竹屋酒造場&巨峰ワイナリー 一献一会 (十四代目日記)

何が酒の味を決めるのか。それは、誰と飲むかだと私は思います。酌み交わす一献はたった一度の人間味との出逢いかもしれません。

十二代目の呟き

1998年12月31日 | ものおもう十四代目
先日、長崎で療養している祖父(若竹屋12代目蔵元)に会ってきました。明治40年生まれの92歳ですが、いつもおもしろい話を聞かせてくれます。

「今も大変な不景気ばってん、昔もこげな時代があったごたる。それでんなんで若竹屋が残っとるかっち言うと・・・(以下標準語訳)

「昔はたくさんの蔵元があったが、今はうち一軒になった。ほかの蔵と何が違っていたかといえば、うち以外の蔵は余米で酒を造っていたということだ。若竹屋は借金をして米を買って酒を造っていた。
 よそは余った米、買いにくれば売りましょう、と言う商いのときに、若竹屋は借金した米、懸命になって売らなければ蔵が回らなかった。だからとにかく懸命だった。そこが違っていたのかもしれん」

「昔からいつも金が足りんと思っていた気がする。ばってん、借金するのは悪いことじゃない。借りた金をうまく使えればそれでよい。それと縁があったから生き残っている。
 昔の長者を見ても、つらいときに辛抱しきったもんだけが残っている。俺が生きているうちにもう一回ぐらいは巡りの良いときが来るかも知れんから、辛抱せんといかんぜ」

「言うのは易いが、するのは難しい。だから年寄りの昔話はしてもしょうがない。90過ぎて知ってる者も回りにいなくなったしな…」

私は祖父の話が大好きで、仕事に行き詰まったときや人間関係で辛いときなどに時折たずねて行きます。大戦前のバブルや戦後のインフレ、昭和30年頃の金融恐慌などをリアルに(おもしろおかしく)話してくれます。

「じいちゃま、心配せんでん大丈夫かよ。俺が何とかするけん。それに120歳まで長生きしてもらえりゃ、じいちゃまの言うごと、巡りの良かときも来るたい!」
「なんか、お前はそげん俺に長生きしろっち言うとか?たまらんの!」
ふたりで大笑いしながら、本当に祖父には長生きして欲しいと思いました。

1998.12.31

ラベルと味の表現

1998年12月27日 | 業界人進入不可
酒(日本酒)の多くのラベルには味を表現する、または連想される言葉が書いてある。これに強い疑問を感じているのは僕だけだろうか?
問題なのは、「造り手」が味を言うことだ。それは、「売り手」の仕事を奪い、「飲み手」の楽しみを奪っていないか?

「造り手」の味の表現はだいたい似通っている上に、押し付けがましい。例えば、ラベルに「辛口」と表現している酒は数知れず。そもそも「辛口」とはどんな味をいうのだろう?
僕は基本的に酒はすべからく「甘い」ものであって「辛味」はないと思っているんだけど。甘味の少ない酒の味をして辛いと言っているのだろう。

味の定義が出来ない「造り手」というのは、はなはだ心もとないものだ。以前「辛口」と書いてあった酒を飲んだら少しもそうは思えなかったので製造元へ直接電話して聞いてみた事がある(ひねくれものなのだ)。曰く『当社比です』。なんだそれは?ユーザーを馬鹿にしとんのか!?

吟醸といえばカタログなどに書いてある表現はどこでも一緒じゃないか。『○×山から涌き出る清冽な水と、○×盆地清涼な気候、そして熟練した○×杜氏の匠の技が醸し出す、フルーティな香り豊かで軽快な喉越しの逸品』って誰も読んでないって。
裏ラベルが凄いところもある。『このお酒は冷やしてお飲み下さい』、『このお酒にはヒラメのムニエルが合います』って余計なお世話だっつうの。

酒の味をうんぬん出来るのは「飲み手」の特権なのだ。大人の愉しみなのである。「飲み手」同士であれこれ話すのがいいんじゃないか。それをメーカーがごちゃごちゃ言うのは興醒めというものである。わかってないのだ。

世界中の嗜好品のなかで「造り手」が味の説明をしているものなどほとんど無い(と思う)。日本で造られる、酒とワインぐらいのものだろう。

では「売り手」はどうだろう? 僕はこの「売り手」のこれまでにも問題があったと思う。
「売り手」はもっと表現すべきなのである、自分が扱っている酒について。基本的には自ら旨いと思う酒を仕入れ、お客様のご要望を満たす商品を提供するのが大きな仕事の一つであろう。
だから、お客様の好みの味を聞き出すことと、提供する酒の味を表現するのは重要な職務なのである。

「売り手」はその職務を軽視していないか?多くの「売り手」が、苦しいとか厳しいとか言っているのを聞くと、そう思う。表現することを大事にしてきた「売り手」は繁盛しているのだ。

メーカーが書くから店が表現しないのか、売り手が出来ないと思って蔵元が書くのか…たまごと鶏とどっちが先かは知らないが、「造り手」はラベルに味の表現を書くのをやめたらいいと思う。

1998.12.27

酒のよし悪し

1998年12月25日 | 業界人進入不可
 『あの酒はよい』とか『あの酒は悪い』という言い方はよくすることだろうけど、僕はどうも気に入らない。(このページは僕の気に入らないことばかりがを書いてあるのでイチイチうるさい奴なのである)

 それを言うなら『好き嫌い』で言ってほしいと思うのだ。何を以って『よし悪し』と言っているんだろう?『よい』と言われた時は素直に『ありがとうございます』と言えるんだけれど、『悪い』と言われた時はナカナカ素直になれないんである。黙って聴けるほど、まだ人間ができていないのだ。

 『嫌い』と言われれば、ああ、嗜好に合っていないんだなあ…と思えるんだけど。嫌いな人が多ければ売れないということでもある。しかし、例えば売れなくても造る酒というものも有るわけで…

 そもそも『よい酒』とはどんな酒だろう?売れる酒はよい酒か?というと事はそう単純じゃない。また売れる理由も様々で、味、見かけ、ブランド、価格など多岐にわたる。

私たちは蔵元として「ほんもの」を造りたい、と口にします。
食品メーカーはこう言ういいかたをするところは多いですよね。
私たちは「ほんもの」を造り続けています!って。

では、口にするからには何をもってして「ほんもの」と言うのか、自分たちの考えをきちんとエンドユーザーに伝えているかと言うとそうじゃない。
単なるセールストークにすぎない生産者が多いんじゃないか!と感じるわけです。

「手作り」とかもそうですよね。
僕が以前たずねた東北の酒蔵で、近代化したフルオートメーションの設備で出来たお酒に「てづくり純米酒」とラベルされていたのを見てひどくショックを受けたことがあります。

 あるネット上でこの事を問い掛けてみたらいろんな意見が出て興味深かった。(いくつかの意見を抜粋してみたので読んでみたい人はこちらへどうぞ)

 僕らは『いい酒』を造ろうといつも努力はしている。だから『いい酒』とは何なのか、という事をきちっと表現できなければならないんじゃないか。
 全国の蔵元が『いい酒』というものをどう考えているか聞いてみたいところではある。


98.12.25