すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

曖昧さの中で折り合う

2017年08月18日 | 読書
 この本を読み、どんな世代のいかなる話題を切り取っても、時の社会状況と無縁ではないという、至極当たり前のことを考えた。そして、いつの時代も明快に割り切れない問題は山積みだという、変わらぬ現実も…。スパスパッと解決していけばさぞかし気持ちいいだろうが、そこには常に別の問題が貌を現してくる。



2017読了83
 『ゆうとりあ』(熊谷達也  文春文庫)

 10年ほど前、地方新聞の数紙に約10か月にわたって連載された小説。解説の言葉を借りると「団塊世代の遊動の物語」である。その世代が60歳定年前後の時に書かれた意味は想像できる。ただ、内容は完全に今につながる物語であり、同時に10年で変わったこと、変わらなかったことが浮き上がってくるようだった。


 会社を定年退職し「蕎麦打ち」を始めた主人公が地方移住を決意する。友人の一人は「起業」、もう一人は「オヤジバンド」。なるほどと思う。都会の元企業戦士たちの典型としてとらえてもいいだろう。安定した老後が保証された最終世代ともいえるが、その時点の逡巡や思索は人生の最終章選択の難しさを物語る。


 500ページを超える大作。中途までは地方移住を決めるあれこれや、移住してからの田舎暮らしを巡る人間模様など、軽いタッチで書かれていた印象を受ける。しかし「ゆうとりあ」と名づけられた里山周辺の分譲地にサルやイノシシ、クマが出現することによって、その内容はかなり深刻な現実を帯びるものとなった。


 解説はこう書く。「後半にいたって、いよいよ『ゆうとりあ』は『相克の森』の続編としての姿を顕にしてくる。」熊谷達也マタギ三部作は文句ない傑作。そこで語られた動物と人間のせめぎ合いが、目の前の現実として大きく取り上げられる。クマをめぐっての問題は、現在も全く変わらず、連日新聞を賑わしている。


 人間に生活圏を奪われた動物という構図が崩れる兆候がある。それを「棲み分け」という形で線引きすることは当然かもしれない。しかし境界線を引くような方法が「野生」に通じないのも道理だろう。私たちが馴らされた二者択一的な選択ではなく、曖昧さを認め、その中で折り合う思考、行動こそ求められている。

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