二月二十六日(木)曇りのち小雨。二・二六事件の日。
当然、朝がきつかった。それでも頑張って、昨日、社友の斉藤義一氏から頂いた、「サバの文化干し」と冷奴で朝食。
思えば、斎藤氏とも長い付き合いだ。お互いが若かりし頃、「私が総理大臣になったなら、義一兄いは自衛隊の出身だから、防衛大臣にしてあげる」などと、ヨタ話を肴に、「オイ馬鹿総理」「馬鹿大臣」などと呼び合って、狭斜の巷を徘徊したものだ。
正に、十年一覺揚州夢 贏得靑樓薄倖名 である。チョット大袈裟か。
今日は、二・二六事件から七十三年。この日に「新潮社」との面会のアポを取ってある。誤解のないように言えば、この日を指定したのは、新潮社側である。時代の価値観など何時変わるか分からない。二・二六事件だって、昭和の忠臣蔵として評価される日が、きっと来るに違いあるまい。
二・二六の今年は獄のほそ霙 とは野村先生の句。
十一時半に高田馬場のホテルで、阿形充規先生、犬塚哲爾、市村清彦、木村三浩の諸氏と待ち合わせ。十分前に着いたが皆、到着していた。質問事項の打合せを済ませた後に、新潮社へ。警察やマスコミが沢山いたのには少々驚いた。
約、二時間半に渡って会談。その様子は、残念ながら、明かすことは仁義に反するので、後日、我々の質問事項に対する新潮社の回答の内容によっては公開してみたい。お土産に、新潮社から、「我々が、いかに『反朝日』として頑張っているか」、との過去の記事を沢山頂いた。うーん、「反朝日」より、もっと大事なことは国体観であり、事実を書く、と言うことのように思う。あの朝日だって、「風の会」の選挙の折の「虱」報道の時は、非を認めて、編集長が民族派の前で謝罪したではないか。誰だって、間違いはある。それを認めるか、認めないかが、大切なのだ。週刊誌の記者だって社会の木鐸であるという気概を忘れて貰いたくないだけだ。
とにかく疲れた一日だった。終了後は、犬塚先輩と、代々木の料理屋で夕食。早目に自宅に戻った。
「週刊誌の記者〝だって〟」の「だって」とはどのような意味が込められたものでしょう?
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