白雲去来

蜷川正大の日々是口実

無名塾の伊藤塾長と会うために札幌へ。

2009-02-28 20:50:45 | インポート

二月二十七日(金)曇り。札幌へ。

 九時半に、木村三浩氏と羽田空港にて待ち合わせて、十時十五分のJALにて札幌行き。何をしに行くかと言えば、赤報隊の実行犯だという島村氏が、かつて所属していたという登別に本部を置く「無名塾」の伊藤清隆塾長と会うためである。

 札幌には、野村先生と昵懇の間柄であった坪岡公康氏がいる。かつて野村先生が小樽や函館などを訪れる際は、必ず坪岡氏が案内をしていた。先生の写真集にある雪の小樽での撮影は、坪岡氏がロケハンし、コーディネートしてくれた。

 また、昭和六十二年の九月五日に函館の湯の川観光ホテルにて、北海道民族派団体協議会の六周年記念大会が開催された際は、坪岡氏が議長を務めていたのである。(島村氏が野村先生と始めて会ったのは、この会合であると、先日、新潮社の人から聞いた)

 何と、私は以前伊藤塾長とお会いしていた。

 飛行機は、オンタイムにて千歳着。飛行場には坪岡氏や弊社社友会の石澤博文、梶浦直樹の両君が出迎えてくれた。当初、伊藤塾長とは登別の近くでお会いする予定であったが、ご尊父が千歳の近くに住んでいるとのことで、千歳にあるJALのホテルに場所を移した。正午過ぎに、伊藤塾長が到着。初対面と思い、名刺交換を行ったが、何と、伊藤塾長とは初対面ではなく、かつて東京のダイアモンドホテルにて開催された、ある同志の戦線復帰のパーティーで顔を合わしていたのだ。「なぁーんだ、そうでしたか」と、いっぺんに和やかな雰囲気になった。 

 伊藤塾長から頂いたすごい写真。

 伊藤塾長に、当然、島村氏のことを聞いてみた。塾長いわく、「阪神支局の事件のあった、昭和六十二(1987)年の五月には、清水(島村征憲氏の旧姓)は、間違いなく登別にいましたよ」と、見せて頂いたのが、伊藤塾長と奥さんの三人で写っている島村氏の写真である。その写真の右下には、「87・6・7」と日付が印刷されているのだ。(伊藤塾長の許可を得ていますので、近々公開します)阪神事件の、わずか、一ヵ月後である。 さらに伊藤塾長は、「あんな大それた事件を起こしたならば、素振りで分かりますよ。その年は、間違いなく清水は登別にいましたよ。確か、清水が参加したかは記憶にありませんが、五月三日は、室蘭で街宣を行っていました」との証言を得た。当時の警備課にいた人を探せば、簡単に確認できるではないか

 「当時、東京に頻繁に行っていたことなど、絶対にありえない。家族ぐるみで、付き合っていましたので、清水の事は私が一番知っている。池袋に事務所などあるわけがない」。伊藤塾長からは、その外に、当時の運動の写真を沢山見せて頂いた。そこに若き日の坪岡氏の写真があって、「おおっ!」っと本人も驚いていた。

 坪岡氏も、「昭和六十二年九月の道民協のパーティーには野村先生と犬塚さんが来賓として来て頂きましたが、伊藤塾長はともかく、清水なんか、当時は私達と同じテーブルに座れるほどの人物ではなく、野村先生と『会った』というより『見た』という程度でしょう。また野村先生と言葉を交わすようなレベルじゃないですよ。それが野村先生を『ダンナ』なんて、とんでもない奴だ」と憤慨していた。

 伊藤塾長は、とても誠実な方で、運動暦も古く、お互いの若い頃の話や思い出話で盛り上がった。本来ならば、まず一献、と言うところだが、残念ながら、もう二十年以上も、酒を絶っている、とのことであった。

 そして「『新潮』は、私の所に一切取材は来ていません。特集記事が出る前も、その後も・・・。朝日新聞社は取材に来たが、いきなり目の悪い八十を過ぎた父に、阪神事件のことを話して、私に会いたいなどと、言うので、頭にきて断ってやった。手紙を置いていったが(そのコピーを頂いた)、もともと朝日が嫌いなので、会っていない」と、話した。

 朝日新聞も、「新潮」の記事の検証に熱心なのは分かるが、新聞社が取材を申し込めば、会うのが当然、といった態度では、まともな取材など出来まい。「週刊朝日」の辣腕記者M女史が伊藤塾長と会っているのだから、彼女を通せばスムースに行くのに。とかく新聞社は週刊誌を低く見ているから、こういうことになる。だからこそ「週刊新潮」にはきちっとして頂きたい。それが、週刊誌に携わる全ての人たちへの責任でもある。

 伊藤塾長にお礼を言って、記念写真を撮って別れた。坪岡氏の車で、今日の宿となるKホテルへ。六時に夕食の約束をしてひとまず、チェックイン。部屋で、今日の伊藤、坪岡両氏からお聞きした話をレポートにまとめた。我々だって自費で、これだけの検証をしているのに、「新潮」とあろうものが何だ、この杜撰さは。

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 ※写真をクリックすると大きくなります。左より、木村代表、伊藤塾長と私。撮影、坪岡氏。

 

 ホテルにいる時に、Mオン出版の編集長から、仕事の連絡が入った。今日の話をすると、その編集長氏から、お寒い話を聞いた。それは、編集長氏と仲良くしている記者の話として、「『週刊新潮』内部でも、今回の特集に関わった者以外は、ほとんどの者が当初から『アブナイ記事』という認識があった。どうせヤバいことになるのは分かりきっているし、後で、上から『お前も知っていたのか』と言われるのが嫌で、関わらないようにしている」。とのことだった。これが本当ならばヒデェー話ではないか。

 さらに、その後、友人のS経新聞の記者氏からも連絡が入り、「例の米大の佐山氏が、ガセだと言って、新潮のSとS(参ったイニシャルが同じだ)と四時間も会ったが、編集長は出てこなかった、この期に及んでまだ逃げられると思っているのかネェー。ここまで来たら、もうギブアップすればいいのに、右翼が抗議しなくったって、世間から責任を問われるよ、社長も含めて。間違いないよ。哀れだネェー」。

 六時に、ロビーで、坪岡氏と彼の門下生の、田中氏と、石澤、梶浦の両社友と待ち合わせて、今日の夕食の会場となる「石鍋亭」へ。前田伏樹総裁、田中清元和尚も合流し、「ジンギスカン」とモツ鍋で一杯やった。北海道でも、「週刊新潮の虚報を正す会」を開催することを確認。梶浦君から今月の二十五日の北海道新聞でも取り上げました、と、その記事が掲載されている新聞を頂いた。何と、私のコメントが掲載されていたのは、チョット意外だった。二次会へ行ったが、今日は、朝が早かったので、十一時過ぎにホテルに戻った。

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※写真をクリックすると、大きくなります。

 

 

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