正にバブル経済・絶頂期の日本、全国津々浦々に様々なプロジェクトが浮上、関西でも関西国際空港を核に臨海部の開発プロジェクトが目白押し状態。わが社も隣接企業と相互の臨海部遊休地150haを共同で開発しようと稀有壮大な絵を描き始めた。
しかし、バブルがはじけ「兵どもが夢の跡」は、現在巨大液晶工場と一大サッカーグランド群になっている。今回の旅は、1992年バブル経済・絶頂期に港湾空間の活性化、高度利用を目的に欧州の港湾空間を調査した旅のエッセイで、「港湾空間を巡る旅」全10回としてご紹介します。
なお、異文化体験13「オアフ・マウイ島 ハッピーウェディングの旅」は、次回に新たに掲載予定です。
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ペレストロイカを垣間見る -モスクワ空港- 1992.7.17
機窓から見る夏のシベリアは、蛇行する大河があちこちに三日月湖を残しながら、緑一色の広大な丘陵地帯が広がる。初めて海外出張した時もモスクワ経由であったが、その時の真冬の白一色の世界とは対照的である。
(左)真冬のシベリア上空 白一色の世界 (右)夏のシベリア上空 タイガ(針葉樹林帯)をぬって蛇行する川
JL445便は、徐々に高度を下げながら日が燦燦と降り注ぐモスクワ空港に着陸した。機内清掃のため一旦機外に出ると、どうであろうか、ここが本当にモスクワかと疑いたくなる様相である。あの薄暗いロビーにカービン銃を持った兵士が睨みをきかしながら、トイレはオリンピック直後というのに壊れ放題で、売店にはウオッカと毛皮製品しかなかった1981年に訪問した空港とは思えない変わり様である。
(左)1981年のシェレメーチェボ空港(1959開港) (右)現在(2010)の同空港、主要国際線はドモジェドボ空港に移転
まず、目に飛び込んでくるのが「Duty Free Shop」の鮮やかな色彩の看板。外貨獲得のために色とりどりの多彩な西側商品が所狭しと並んでいる。値段は多少高い気がするが、ロシア土産にと手頃な10~20$程度の商品が結構売れている。
レジに座るロシア娘までが明るい制服に身を纏い、笑顔を絶やさない。ちょっと奥まった所には何と!「うどん屋」まであるではないか。
現在のシェレメーチェヴォ空港のDuty Free Shop、今回(1997年)は現在に近い、1981年当時とは雲泥の差である
経済の自由化は、ここ空港では西側とほとんど変わらないが、市内では勤労者の平均月収2000ルーブルの厳しい物不足の生活が続いていると言う。
前回のフライトでは、誰も降りたがらない当地であったが、今回は当地での乗り換え客が沢山あったことを見ても、身近な存在になったことが窺い知れる。
ペレストロイカ、それは10年後のロシアをどのように変えていくのだろうか?