★バルトーク・ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ集
(演奏:ギドン・クレーメル(vn)、マルタ・アルゲリッチ(p))
1.バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第1番
2.ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ
3.メシアン:ヴァイオリンとピアノのための主題と変奏
(1985年・1988年録音)
今日は10月7日、長崎の諏訪神社では「長崎くんち」が始まっているはずです。今年は連休と重なって人出もさぞかし多いことでしょうね。
「おくんち」についてはご存知かと思いますが、7年に一度まわってくる踊町の当番町が諏訪神社に各町独自に伝わる出し物を奉納するというもの。
それぞれに傘鉾(かさぼこ)やら担ぎ物・曳物(ひきもの)それぞれ伝統の出し物の演技を諏訪神社に奉納するとともに、市街地を練り歩くというお祭であります。
演目としては「太鼓山(コッコデショ)」とか「龍踊(じゃおどり)」なんかがつとに有名ですよね。
私は、かねて4年間長崎市に住んでいたので、くんちに関しては準備から本番に至るまでいろんな方のケースを見てきました。
私自身は踊町に住んでいなかった(新大工町)ので体験したことはないんですけどね。(^^;)
独自の風習が残されていて興味深い限りです。
前日から「庭見せ」といって踊りを奉納をする人の自宅でそれぞれ衣装を見せる催しをしたり、単に練習して踊町の出し物を奉納するだけでなく「小屋入り」「人数揃え」「庭先廻り」など当番町を横断してのきちんとした「くんち」に出場する際のルールが決められているのです。
こんなことの端々に伝統の重みを感じます。
私が住んでいたころから既に若者だけではなく、伝統を知る年配のかたが減る傾向にあったんですが、是非ともこういった風習は末永く形として残していってほしいものだと思いますね~。
合理的に考えれば、そのときどきにあったやりかたというものはゼッタイに存在すると思うのですが、やはりその土地にある風習はそのとおりに守られねばならないのではないでしょうか?
たとえ人がいなくなったとしても、その人のみをどこかから募るというような形にして、ルールはルールできちんと伝承していく・・・そんな取り組みを期待したいと思います。
さて、諏訪神社の境内から前の道まで「長坂」と呼ばれる長い階段があって、その中間の踊場の広場に足場を組んで観客席を設け、文字通りそこを踊場として奉納します。
これは諏訪神社の諏訪・森崎・住吉の三柱の神様がくんち初日に諏訪神社の長坂を「お下り」して、大波止というところの「御旅所」に光臨され(だから神様をお参りする人はこっちに行くことになる)、最終日にまた長坂を「お上り」してお帰りになる・・・要するに神様がこっちの世界にいらっしゃる間、踊りを奉納したりいろいろ「おくんち」祭の行事をするのです。
さて、クレーメルとアルゲリッチは1980年代からさまざまな共演をしています。
その中にバルトークのヴァイオリン・ソナタ第1番の演奏もあり、先日来の福田総理バルトーク好きの記事を書いてたときにまた久しぶりに耳にしました。
アルゲリッチの伴奏者としてのピアノについては、私の周りでも賛否両論があってなんとも言い難い所ではありますが、個人的には、共演する相手が素晴らしければという条件付で、とんでもなく素晴らしい伴奏というか共演者としての奏楽であると思います。
何でかというと、誰に対しても横綱相撲だと思えちゃうからです。
彼女は、どんな意味にせよ素晴らしい人に対しては負けじと(といって彼女が負けることはない)張り合ったり、寄り添ったりでこの上なく刺激的な演奏ぶりを発揮するように思われます。
逆に相手にとって不足というより、自分がサポートして助けてやらなきゃという共演相手に対しては、ところどころ「さすがは」という片鱗をちょろっと出すものの、結局は2人分、3人分まとめて“それなりの”雰囲気作りをしちゃってイッチョマエの演奏に仕立て上げてしまうのがアルゲリッチ流・・・。
凄いことではあるのですが、やはりちょっとムリがある・・・。(^^;)
もちろんここでの共演者クレーメルは実績や名声だけでなく、その演奏内容においても一家言あるどころか余人を以って代えがたい境地を誇るヴァイオリニストであります。
まぁメシアンの曲はなんだかよくわからないので放っておきますが、バルトーク・ヤナーチェクの両ヴァイオリン・ソナタについては殆どバトルともいっていいような応酬が続く、壮絶な演奏という印象を持って聴きました。
特にバルトークでのアルゲリッチは、冒頭のただごとならぬアルペジオの響きの霧からして幻術的であり、周辺の空間を瞬時に伸縮させて見せケラケラ笑っているような感じ。
頬に当たる風は生温かいと思ったらひんやりしたり、およそ水系のアイテムは何でも自在に使いこなすことが出来るようで、音の粒は霧になったり水蒸気と化して見えなくなったり、対象物にどのような形態であっても執拗にまとわりつくかのように展開します。
もちろんそれは曲が要請しているのであって、アルゲリッチが妖怪だといっているわけではありません。
しかし、誰もがその妖怪になれるわけでもなく、彼女が毎回スポンティニュアスなものを感じさせずにはおかないとんでもないスケールのピアニストであることは事実であります。
対抗を余儀なくされる実力派の共演者には、もしかしたら妖怪よりもおっかない存在であるかもしれません。(^^;)
対するクレーメル、修験者か求道者かという出で立ちでアルゲリッチの音符攻撃の魔の手に屈することのないよう、懸命に正気を保とうとするような一途なヴァイオリンの音を繰り出しています。
この戦いの一進一退の攻防は、悪魔のキヒヒヒという声の聞こえてきそうな伴奏と、半ば我を忘れて必死に呪文を唱えるようなヴァイオリンの毅然とした荒削りでありながら作りこまれた音色・フレージングが相俟って、何層にも響きが折り重なった美しい瞬間を何度となく聴かせてくれます。
先入観を持って聞くうちは「これは何なんだ?」ということになってしまうと思いますが、もし曲の向こう側にある世界を見てしまったら麻薬的に入れ込んでしまう楽曲になるような気がします。
いろんな演奏家によるヴァージョンがありましょうが、やはり真っ先に指折られるべき名演奏だと思いましたね。(^^)/
ここでのアルゲリッチはすべてのものを細かいアルペジオの音響の霧に包んで持っていってしまいそうな勢いであります。
長崎くんちでは、素晴らしい出し物についてはプログラムを終えて長坂を下り降りようとしたときに「もってこ~い、もってこい」あるいは「しょ~もやれ~」といったアンコールの掛け声で戻って、あるいは所望に応えもう一度演目を披露する習わしです。
「持ってって」しまうアルゲリッチと、アンコールを所望したい名演奏と、おくんちの掛け声がたまたま私の頭のなかでシンクロしたので、こんな記事になりました。
余談ですが「おくんち」前日に「裏くんち」という催しがあります。
「おくんち」を見るのがもちろん王道ですが、わたしは裏くんちを見ることは貴重な長崎の見所のひとつだと思っています。
なお、くんちを見る際には必ず「白ドッポ」と呼ばれる白い法被を着た方々のいうことをよく守ってみるようにすることが大事です。(^^;)
(演奏:ギドン・クレーメル(vn)、マルタ・アルゲリッチ(p))
1.バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第1番
2.ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ
3.メシアン:ヴァイオリンとピアノのための主題と変奏
(1985年・1988年録音)
今日は10月7日、長崎の諏訪神社では「長崎くんち」が始まっているはずです。今年は連休と重なって人出もさぞかし多いことでしょうね。
「おくんち」についてはご存知かと思いますが、7年に一度まわってくる踊町の当番町が諏訪神社に各町独自に伝わる出し物を奉納するというもの。
それぞれに傘鉾(かさぼこ)やら担ぎ物・曳物(ひきもの)それぞれ伝統の出し物の演技を諏訪神社に奉納するとともに、市街地を練り歩くというお祭であります。
演目としては「太鼓山(コッコデショ)」とか「龍踊(じゃおどり)」なんかがつとに有名ですよね。
私は、かねて4年間長崎市に住んでいたので、くんちに関しては準備から本番に至るまでいろんな方のケースを見てきました。
私自身は踊町に住んでいなかった(新大工町)ので体験したことはないんですけどね。(^^;)
独自の風習が残されていて興味深い限りです。
前日から「庭見せ」といって踊りを奉納をする人の自宅でそれぞれ衣装を見せる催しをしたり、単に練習して踊町の出し物を奉納するだけでなく「小屋入り」「人数揃え」「庭先廻り」など当番町を横断してのきちんとした「くんち」に出場する際のルールが決められているのです。
こんなことの端々に伝統の重みを感じます。
私が住んでいたころから既に若者だけではなく、伝統を知る年配のかたが減る傾向にあったんですが、是非ともこういった風習は末永く形として残していってほしいものだと思いますね~。
合理的に考えれば、そのときどきにあったやりかたというものはゼッタイに存在すると思うのですが、やはりその土地にある風習はそのとおりに守られねばならないのではないでしょうか?
たとえ人がいなくなったとしても、その人のみをどこかから募るというような形にして、ルールはルールできちんと伝承していく・・・そんな取り組みを期待したいと思います。
さて、諏訪神社の境内から前の道まで「長坂」と呼ばれる長い階段があって、その中間の踊場の広場に足場を組んで観客席を設け、文字通りそこを踊場として奉納します。
これは諏訪神社の諏訪・森崎・住吉の三柱の神様がくんち初日に諏訪神社の長坂を「お下り」して、大波止というところの「御旅所」に光臨され(だから神様をお参りする人はこっちに行くことになる)、最終日にまた長坂を「お上り」してお帰りになる・・・要するに神様がこっちの世界にいらっしゃる間、踊りを奉納したりいろいろ「おくんち」祭の行事をするのです。
さて、クレーメルとアルゲリッチは1980年代からさまざまな共演をしています。
その中にバルトークのヴァイオリン・ソナタ第1番の演奏もあり、先日来の福田総理バルトーク好きの記事を書いてたときにまた久しぶりに耳にしました。
アルゲリッチの伴奏者としてのピアノについては、私の周りでも賛否両論があってなんとも言い難い所ではありますが、個人的には、共演する相手が素晴らしければという条件付で、とんでもなく素晴らしい伴奏というか共演者としての奏楽であると思います。
何でかというと、誰に対しても横綱相撲だと思えちゃうからです。
彼女は、どんな意味にせよ素晴らしい人に対しては負けじと(といって彼女が負けることはない)張り合ったり、寄り添ったりでこの上なく刺激的な演奏ぶりを発揮するように思われます。
逆に相手にとって不足というより、自分がサポートして助けてやらなきゃという共演相手に対しては、ところどころ「さすがは」という片鱗をちょろっと出すものの、結局は2人分、3人分まとめて“それなりの”雰囲気作りをしちゃってイッチョマエの演奏に仕立て上げてしまうのがアルゲリッチ流・・・。
凄いことではあるのですが、やはりちょっとムリがある・・・。(^^;)
もちろんここでの共演者クレーメルは実績や名声だけでなく、その演奏内容においても一家言あるどころか余人を以って代えがたい境地を誇るヴァイオリニストであります。
まぁメシアンの曲はなんだかよくわからないので放っておきますが、バルトーク・ヤナーチェクの両ヴァイオリン・ソナタについては殆どバトルともいっていいような応酬が続く、壮絶な演奏という印象を持って聴きました。
特にバルトークでのアルゲリッチは、冒頭のただごとならぬアルペジオの響きの霧からして幻術的であり、周辺の空間を瞬時に伸縮させて見せケラケラ笑っているような感じ。
頬に当たる風は生温かいと思ったらひんやりしたり、およそ水系のアイテムは何でも自在に使いこなすことが出来るようで、音の粒は霧になったり水蒸気と化して見えなくなったり、対象物にどのような形態であっても執拗にまとわりつくかのように展開します。
もちろんそれは曲が要請しているのであって、アルゲリッチが妖怪だといっているわけではありません。
しかし、誰もがその妖怪になれるわけでもなく、彼女が毎回スポンティニュアスなものを感じさせずにはおかないとんでもないスケールのピアニストであることは事実であります。
対抗を余儀なくされる実力派の共演者には、もしかしたら妖怪よりもおっかない存在であるかもしれません。(^^;)
対するクレーメル、修験者か求道者かという出で立ちでアルゲリッチの音符攻撃の魔の手に屈することのないよう、懸命に正気を保とうとするような一途なヴァイオリンの音を繰り出しています。
この戦いの一進一退の攻防は、悪魔のキヒヒヒという声の聞こえてきそうな伴奏と、半ば我を忘れて必死に呪文を唱えるようなヴァイオリンの毅然とした荒削りでありながら作りこまれた音色・フレージングが相俟って、何層にも響きが折り重なった美しい瞬間を何度となく聴かせてくれます。
先入観を持って聞くうちは「これは何なんだ?」ということになってしまうと思いますが、もし曲の向こう側にある世界を見てしまったら麻薬的に入れ込んでしまう楽曲になるような気がします。
いろんな演奏家によるヴァージョンがありましょうが、やはり真っ先に指折られるべき名演奏だと思いましたね。(^^)/
ここでのアルゲリッチはすべてのものを細かいアルペジオの音響の霧に包んで持っていってしまいそうな勢いであります。
長崎くんちでは、素晴らしい出し物についてはプログラムを終えて長坂を下り降りようとしたときに「もってこ~い、もってこい」あるいは「しょ~もやれ~」といったアンコールの掛け声で戻って、あるいは所望に応えもう一度演目を披露する習わしです。
「持ってって」しまうアルゲリッチと、アンコールを所望したい名演奏と、おくんちの掛け声がたまたま私の頭のなかでシンクロしたので、こんな記事になりました。
余談ですが「おくんち」前日に「裏くんち」という催しがあります。
「おくんち」を見るのがもちろん王道ですが、わたしは裏くんちを見ることは貴重な長崎の見所のひとつだと思っています。
なお、くんちを見る際には必ず「白ドッポ」と呼ばれる白い法被を着た方々のいうことをよく守ってみるようにすることが大事です。(^^;)
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