SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

山本五十六記念館(その1)

2007年02月02日 00時42分18秒 | 長岡
先週末帰ったときに小3と小2の息子ふたりの子守をおおせつかって、ちゃりんこに乗って出かけることにしました。
子供とともに自転車を駆って辺りをふらつくことができるというのも、考えてみれば幸せなこってす。
何はともあれ自分も(メタボながら)それなりに健康で、子供も元気に成長してくれているということに他なりませんから・・・。(^^)v
ホント、ありがたいことです。

私の住まい(留守宅)は長岡駅の東にあります。
自宅を出発し長岡駅東口の近くにある、例の“米百俵”で発足した学校のひとつ“阪之上小学校”の横をすり抜けて、長岡駅北のJRの線路をくぐる通路を走り抜けるルートで山本五十六記念館へ向かいました。
(その後、長岡戦災資料館に行ったのですがそれは記事を改めます。)

しかし面白いもので線路をくぐるのに急勾配を一旦下って線路を渡り、向こうに出たら上るわけですが、兄弟でぜんぜん違う・・・。
長男は全速力でくだりを突っ込んで勢いでのぼりを半ばまで行くのですが、上りきれないと見るや変速を緩めてちんたら漕いでくる。次男は安全運転でくだり、のぼりは(変速器はついているのに)腰を浮かせてえっちらおっちら上ってくる。
対照的ですなぁ。同じ環境で暮らしてるのにね。
ちなみに私の小さいころは、長男ヴァージョンでした。どっちかというと容姿も長男の方が子供のころの私に似てるんで。B型ってところも・・・。
次男はかみさん方に似ているかもしれません。O型ってところも・・・。

さらにオモシロいのは、スキー板をはくとまるで逆でやんの。
それも兄弟それぞれ父方・母方に似ているだけなのかもしれません。
おっと私はスキーを滑るのはわけないですよ!! 曲がる・止まるが難儀なだけで。

さて山本五十六記念館に着きました。
子供にはどこに行くとも言っていなかったので「ここどこぉ~?」「なにすんのぉ~?」状態だったのですが、隣にセブンイレブンがあると見るや飲み物を買えだの菓子をくれだの騒ぎ始めました。

実は先日の記事の“たまごっち死亡事件”のすぐ後の話なので、私はつかつかと館の中へ・・・。
子供はしぶしぶついて来たという感じ。
入館料は長岡市在住の小中学生は無料という入り口のアナウンスに、思わずラッキー!

何やかや言いながら先に展示室へ飛び込んでいった二人はわいわいしていましたが、まぁ“他にお客さんが誰もいない!”ので許してくれぃというワケで私は展示を観ておりました。

手紙類の陳列が多く、山本五十六長官の人となりが滲み出た展示に思わず深い感銘を受けました。他にも山本長官の書が何点か飾ってあったのですが、もの凄く達筆なんですね。
遺された最初の手紙も子供の手になるとは思えない達筆さ、そして内容。
大人になってからも、山本帯刀家を継ぐにあたって家督相続会議が延期されることになったという兄宛の手紙などでの柔和円満な文字・字句のあしらいに、人徳の高さやどっしり構えながらも朗らかな印象を受けました。
思わず見入っただけでなく、ほとんどの書簡の全文を通読してしまいました。
それは山本五十六という人がどのような人であったのかをイメージしやすいように、展示が纏められているためでもあったと思います。

逆に書はといえば、雄渾無比。
自身の心情を刻み込むがごとくの筆遣い・・・。
私に書の心得はありませんが、音楽を聴くのと同様にその字体から何を伝えたいかは明確にわかりました。
生前の山本長官がどんな方であったかを追いながら、書を前にしたから余計にそう思えたのかもしれません。
書に関しては記事をあらためてご紹介したいと思っています。

要するにそれらを通して彼の周りには彼を慕う人がどれほど多かったか、如何に強固な意志を持った方だったか、自分(達)の意に反し日独伊三国同盟が成った経緯、連合艦隊司令長官となってなお早期講和を主張したなど時流の本質を見抜く目の確かさなどが詳らかに伝わってきました。
まさに畏敬の念を覚えるばかり。。。

知らぬ間にやや静かになっていた(と思う)子供達が、携帯のカメラを貸せと寄ってきました。
それは連合艦隊司令長官に着任するに当たって側近に配ったという“短刀”を撮りたいと言ってきたのですが、撮影後「ここはどこ?」で「真ん中にある“これ”はなんだ?」と彼らから尋ねてきてくれました。

ちなみに「真ん中にある“これ”」とは ↓ のことです。

        (山本五十六記念館のパンフレット裏面より部分を撮影のうえ掲載しています。)

山本五十六長官がパプアニューギニア上空で、暗号が米軍に解読され(解読されていた事実は終戦後まで伏せられていた)てしまっていたために待ち伏せされて撃墜された飛行機の左翼です。

子供には概略「長岡出身のとっても勉強して人に慕われた山本五十六という人が、日本が戦争にならないように一生懸命頑張ったけれども、軍隊の一番偉い人になってしまったのでアメリカと戦って打ち落とされたときの飛行機の羽」だと説明しました。
子供からは「なぜそのような戦争を嫌った人が、最前線で殺されなければならなかったのか?」というような質問をされたのですが、答えられませんでした。

何とか口にした台詞はこれです。

「戦争とはそういうものだ。どっちがいい悪いではなく殺し合いなんだから。」

あってますかねぇ・・・。
自分としては子供にメッセージしたかったことのど真ん中を突いた質問をしてもらいながら、明確な答えを提供できなかったことが気になってるんですが。。。

まぁ子供が「戦争は絶対してはいけないことだ」と絵に描いたようにうなずきあってたのを見たときは嬉しかったですけどね。
勝手に感じ取っててくれたようであればそれはそれでよい・・・ということで。

「そういういい人を戦地に送り込んだ悪いやつはどうなったのか?」という質問も受けたような気がしたのですが、さらにわからなかったので「死刑になったのかなぁ~」と誤魔化しました。
これは懺悔室行きですかねぇ~。

そういえば昔にも「何で日本は戦争したのか?」と訊かれてごまかしたっけ?
やばいやばい。子供はスルドイから!!

山本五十六記念館の案内パンフレットの表面です。


“誠意と慈愛の人”という謳い文句になっていますが、まさにそのとおり。
郷土の英雄という理由だけでなく、私は山本五十六という人のすべてに魅了されました。
人望の篤さはビジネスの世界でもつとに有名で、この記念館には特に掲示はなかったようですが、次の名文句がありますよね。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」

考えてみれば以前も触れましたが、山本長官の実の祖父(高野家の人)は北越戦争で戦死しています。
実は家系図を見たときにその方が亡くなった場所が、今私が住んでいる場所に非常に近いところ(いつも行くスーパーがある。かっぱ寿司もある・・・)だったので驚きました。

また養子入りした山本帯刀家は長岡藩の家老の家柄ですが、山本帯刀といえば北越戦争で河井継之助を逃がすためのしんがりを務めるなど武功高く、会津で24歳にして殉死したひとでしたよね。
囚われの身となってなお官軍から“殺すに惜しい”と降伏を打診され、主君からそのような命を受けていないとして果てる道を選んだという・・・。
こういうのって、現代に生きる私にはなんて言っていいかわかりません。

思うに実家も養子縁組先も、北越戦争以来踏んだり蹴ったりの名家であり、なおこのような大人物を輩出した挙句に、アメリカにとっての我が国を代表する敵役になっちゃったというのはなんとも皮肉。
でも決してビンラディンやフセインのような敵役ではなく、一目置いた敵将という位置づけだったに違いない、少なくともそうであったと信じたいという思いを禁じえません。

さてさて朱子学等の儒教的な考えにも造詣が深かった、すなわち先祖を尊ぶ思想に根ざしていた山本長官は祖父の最期を思うにつけ、北越戦争の惨状と大東亜戦争をダブらせていたに相違ないと思います。
もしかしたら自身の最期も、更には日本の敗北はもとより衰退をも憂いていたかもしれません。

それを端的に示す山本五十六が中国古典からよく引いたと言われる言葉を、最後にご紹介します。
今日は音楽の話はなしです。たまには許してください。
そしてこの文句は、ひょっとしてひょっとしたら本日ただいま現在の我が国への警鐘であるのかもしれません。
みなさんはどのように受け止められますでしょうか?

   国大なりと言えども戦いを好まば必ず亡ぶ
      天下安んずるといえども若し戦わば必ず危うし



かくて我が息子達はセブンイレブンにてお目当てのお菓子を手に入れましたとさ。

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4 コメント

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山本長官 (ロイヤルトランペット)
2007-02-02 21:36:49
山本五十六記念館は数年前の夏に見に行きました。
確かに中学生のときの手紙から達筆で何より達意ですね。
前線で部下の艦隊長官に立てたお茶の道具とかがあった気がします。
撃墜されたときの搭乗機の機材をパプア・ニューギニアから持ち出しするのは政治的にも困難があったようですが、やはり現物そのものが展示されているというのは訴えかける力が大であると思います。
近くの生家も見学し、二階の小さな部屋に小さな木の机が置かれているのを見て、こんな環境で勉強したんだなあと思いました。
『父・山本五十六』という本をそのとき買いましたが、まだ読んでいません。同じジャンルで『父・山口多聞』はとても興味深く読みましたが。

山本五十六が連合艦隊司令長官になったのは、日独伊三国同盟に反対して陸軍や右翼から命を狙われたとき、上司の米内光政海軍大臣が安全な海上勤務に逃がしたという話です。しかしその後三国同盟は締結され、続いて日米開戦となってしまいました。
早めに連合艦隊司令長官から足を抜いて、海軍大臣として軍政の方面で活躍してほしかったと思うのは私だけでないと思います。
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おくわしいんですねぇ~☆ (クラウディオ アラウ)
2007-02-02 22:30:52
またまた、先日訪問した私よりお詳しいようで恐れ入ってしまいました。

山本長官のご真意はわからないですが、日独伊三国同盟は命に代えてこれを阻止せねばならないと声を上げておられた訳で、どこで殉じられるかが変わっただけだとしたらどっちが長官の本望だったんでしょうか?

だいたい大戦中ぐらいまでの我が国のリーダーの心構えには恐るべき「気骨」を感じます。
いつでも死ぬ覚悟が出来ているというか・・・。

「口にするならやれ!」とか言われそうなのでここではこれ以上言及しませんが、そんな私なんか骨粗鬆症どころでなくクラゲ状態ですねぇ・・・。

といいつつ、またどっかで今のリーダーはとかやるんでしょうね。
酒が飲めず酒屋で憂さが晴らせない私が管を巻くとしたら、やはりここしかないでしょう。


たとえば・・・
厚生労働大臣は今回の発言もゆゆしき事態でありますが、かつての金融担当大臣時代にちゃんとやっていれば、現在の遍く“金融機関”への行政処分連発の事態の原因を見抜けていたはずではないでしょうか?
まさに彼が大臣だったころに起因するというか、監督下にあった金融機関で行われていたことに対して大ナタが振るわれているわけですから。

のみならず、当時の懸案だった“公的資金注入問題”ですら、遅きに失した感があったのではなかったか!?
離任間際は竹中平蔵さんに追われるような感じだったですけれど、もともと政治家でない竹中さんが去ったとたんにまた交替で出てこられましたね~・・・

今回の進退の問題は当然・・・・・・べきでしょう。

なぁんてね。懲りないワタクシ。
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武士道 (通りすがり)
2010-05-28 18:11:09
初めまして、初コメントです。

 記事の感想を書かせて頂きます。
 山本五十六という人は、まさに"武士"という人なんだな、と思いました。
先に、名著「人間 山本五十六」/反町栄一 著(初期の長岡商工会議所・青年部の長だった人)を読んでいたので、余計にその思いを強くしました。
長岡藩の武士の家だった高野家は、五十六に対しても「立派に戦って死んでこい」と言って、戦地に送り出したそうです。
太平洋戦争でも、あくまで軍人として『現場で戦争を早期に終わらせる努力をし続け、叶わないとなったら潔く戦って死ぬ』事を選んだ人だと思います。
ちなみに戊辰戦争で降伏せずに戦死した祖父(実家・高野家)を、誇りに思っていたそうです。
また儒学者だった実父・貞吉翁の影響なのか、儒学の思想の影響も強い人だと思いました。

ちょっと長くなりましたが、感想を述べさせて頂きました。
失礼します。
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通りすがりさん (クラウディオ・アラウ)
2010-05-29 10:16:35
コメントありがとうございます。

この記事を書いて3年余り・・・
読み返してみて子供たちとの会話も思い出されました。

仰るとおり、確かに山本五十六長官は“武士”だったと思います。
武士とは何ぞやということも問題になるでしょうが、ざっくり信念を貫き行動に移して実践しきれる人だと考えて、そのように思っています。

コメントに記載いただいた情報から、あの思想がどのように形作られたかが窺い知ることができ感謝いたします。
が、山本長官のすごいところはそれを自分の行動に体現して、周りが自ずと随う機運ができたところではないでしょうか?

キャッチフレーズになっていると書いた「誠意」も「慈愛」も、実は行動を起こしている側が感じるものではなく、感じさせられるものでもないのです。
長官の言動を受けた相手をして、「誠意や慈愛を感じさせしめる」ものです。

ここが真似できる人とできない人がいて、自分O信念を貫いて実践していながら、山本長官のように必ずしも慕われない人がいる(ほとんどがそう?)のではないかと。。。

そして・・・
信念を貫いている人は昔も今もいる。だから武士は今もいる・・・。

でも戦前までの信念が家族・地域・国といったコミュニティーを念頭に置いた信念であることが多かったのに対して、戦後は個人が中心とそのありかが変わってしまったことが一般的に言えると思います。

長岡にはそのコミュニティーの絆の強靭さを偲ばせる事柄がそこここにあり、もっと強靭であったろうそのようなしがらみのうちにあって、山本長官のように相手をして感服させしめる言行が貫けた人は稀だったんでしょうね。

理にかない、経験に裏打ちされた信念はあるか?
それが行動に伴っているか?
そしてそれが世のためになり、相手をして心服させしめているか?

通りすがりさんの仰る武士になるのも大変だと思いました。
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