★ヴェデルニコフの芸術―12 ~ベートーヴェン・3
(演奏:アナトリー・ヴェデルニコフ)
ベートーヴェン
1.ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109
2.ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
3.ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 作品111
(1976年、1969年、1974年録音)
今まで・・・
何をこの演奏から聴き取ってきたのだろう?
さりげない、しかしやや華やかさを感じさせるこの演奏から。。。
そのさりげなさから、無臭というより無味乾燥を思ったことがある。
その華やかさから通俗的であると思ったこともある。
そして今聴いてもさりげなく、やや華やかなのだが・・・なんで滑稽なほどに沁みるのだろう。
宇宙人ジョーンズになったような気分だと思わず茶化してしまいたいぐらい、ヘタすると落涙しそうになるぐらいハマってしまった。
これまで聴いた中では、コヴァセヴィチのもう魔法としか言いようのないぐらいめくるめく閃きの只中に置かれた演奏、私のピアノ演奏視聴において「初めて見た親鳥」的存在であるブレンデルのまさに彼ならではの音色と語り口、ソリッドで梃子でも動かないぐらい堅固に思えるポリーニ、そのポリーニよりピアノの響きだけなら堅固でピカピカのピッツアーロ、整っては居ないのに何故かこちらの心の中も整わせさせてくれず打ち震えさせてくれる感動モノのヨウラ・ギュラー、むき出しの銅線のようなピーター・ゼルキン、そして重鎮アラウの60年代の演奏なんかが、私の中では意味深いものとして思い起こされる。
その中にあって、鳴り物入りで喧伝され耳にしたこの演奏には、あまりにも普段着でありふれた最後の3大ソナタがあった・・・という記憶がある。
親しみやすいといえば、親しみやすい演奏。
しかし、先に書いた「心なしかの華やかさ」がどうしても通俗性と結びついて、神のごときあるはずのこれらの曲のありようとは相容れないような思いの呪縛から逃れられずに居た。
でも、今こそ気づいたような気がする。
真にヴェデルニコフがこれらの楽曲に込めようとした思いを。。。
それは、神聖な音楽であっても、決して人間的なぬくもりや日々の日常性の生活臭を剥ぎ取ったものではない、日々へのささやかな感謝の思いをこめての奏楽であるに違いないということを。
この読みが別に違っていても構わない・・・。
ピアニストがこれらの曲をそうして弾いたものだと考えれば、こんなに据わりのいい、そして泣ける解釈はないからだ。
泣笑い劇場、否、海外だから悲喜劇とでもいうべきか。
その休憩時間などに通奏低音のように人の気持ちを載せた音楽を奏でるのであれば、まさしくこのような音楽がいい。
110番の末尾を大伽藍のように壮麗に築き上げることに血道をあげる道をいくピアニストであったり、例えばブレンデルのごとく111番のアリエッタに関して無に収束させて昇華させるなどという神々しい奏楽を構想している人であればヴェデルニコフのそれは「ヌルい」ということにもなろうか・・・。
でも、ウルトラマンが怪獣を超人的な能力で撃破する人であると考えていればブレンデルやポリーニ、必殺光線ならコヴァセヴィチのタッチから繰り出される音色ということにもなろうが、ウルトラマンは地球人に親愛の情を抱く慈愛の人でもあると知ればヴェデルニコフはまさにその点での最右翼の解釈をしてくれている。。。
そこへいくとギュラーなんかウルトラの母みたいだが、実はそんなに強くない・・・気もするのが惜しい。
が、ヴェデルニコフについては、実はとっても強いんだと確信できるものがある。。。
というのは、これも喩えが素っ頓狂だが女子プロゴルフの岡本綾子プロの絶頂期のビデオを見たとき、全身を使ってどこにも力など入っていなさそうなスィングに見えて、上半身を隠すと屈強な下半身、何がぶつかってきてもびくともしそうにないぐらい大地に根の生えた下半身が、やはりしなやかに、もちろんスウェーなどするはずもなく仁王立ち(?)していたのを思い起こさせるぐらい、この演奏のポテンシャルには安定感がある・・・のだ。
いずれにせよ、この演奏を再発見できて嬉しかった。
折りに触れて、また聴きなおしてみたいものだ。
なお、ヴェデルニコフのショパンのピアノソナタ第2番のディスクも持っており、こちらもディスカヴァーするべく聴いてみた。
驚いたことに、ふつういかめしく弾かれることの多いベートーヴェンを親しみやすく弾いているヴェデルニコフは、ショパンではむしろ武骨に毅然とした態度でピアノと対峙しているように思われる。
これも出色の演奏であるとは思われたが、厳選された・・・うそ、たまたま思いつきで耳にしてアップする機会に恵まれた・・・ディスクについて述べるようにしているので、詳細はまた機会を改めることにする。
今年の予定を鑑みるに、アップできるのはきっと今日が最後になるだろうと思われる。
言いそびれるといけないので、今述べておく。
みなさん、めりー・くりすます&良いお年を。
来年もよろしくお願いします。(^^;)
(演奏:アナトリー・ヴェデルニコフ)
ベートーヴェン
1.ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109
2.ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
3.ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 作品111
(1976年、1969年、1974年録音)
今まで・・・
何をこの演奏から聴き取ってきたのだろう?
さりげない、しかしやや華やかさを感じさせるこの演奏から。。。
そのさりげなさから、無臭というより無味乾燥を思ったことがある。
その華やかさから通俗的であると思ったこともある。
そして今聴いてもさりげなく、やや華やかなのだが・・・なんで滑稽なほどに沁みるのだろう。
宇宙人ジョーンズになったような気分だと思わず茶化してしまいたいぐらい、ヘタすると落涙しそうになるぐらいハマってしまった。
これまで聴いた中では、コヴァセヴィチのもう魔法としか言いようのないぐらいめくるめく閃きの只中に置かれた演奏、私のピアノ演奏視聴において「初めて見た親鳥」的存在であるブレンデルのまさに彼ならではの音色と語り口、ソリッドで梃子でも動かないぐらい堅固に思えるポリーニ、そのポリーニよりピアノの響きだけなら堅固でピカピカのピッツアーロ、整っては居ないのに何故かこちらの心の中も整わせさせてくれず打ち震えさせてくれる感動モノのヨウラ・ギュラー、むき出しの銅線のようなピーター・ゼルキン、そして重鎮アラウの60年代の演奏なんかが、私の中では意味深いものとして思い起こされる。
その中にあって、鳴り物入りで喧伝され耳にしたこの演奏には、あまりにも普段着でありふれた最後の3大ソナタがあった・・・という記憶がある。
親しみやすいといえば、親しみやすい演奏。
しかし、先に書いた「心なしかの華やかさ」がどうしても通俗性と結びついて、神のごときあるはずのこれらの曲のありようとは相容れないような思いの呪縛から逃れられずに居た。
でも、今こそ気づいたような気がする。
真にヴェデルニコフがこれらの楽曲に込めようとした思いを。。。
それは、神聖な音楽であっても、決して人間的なぬくもりや日々の日常性の生活臭を剥ぎ取ったものではない、日々へのささやかな感謝の思いをこめての奏楽であるに違いないということを。
この読みが別に違っていても構わない・・・。
ピアニストがこれらの曲をそうして弾いたものだと考えれば、こんなに据わりのいい、そして泣ける解釈はないからだ。
泣笑い劇場、否、海外だから悲喜劇とでもいうべきか。
その休憩時間などに通奏低音のように人の気持ちを載せた音楽を奏でるのであれば、まさしくこのような音楽がいい。
110番の末尾を大伽藍のように壮麗に築き上げることに血道をあげる道をいくピアニストであったり、例えばブレンデルのごとく111番のアリエッタに関して無に収束させて昇華させるなどという神々しい奏楽を構想している人であればヴェデルニコフのそれは「ヌルい」ということにもなろうか・・・。
でも、ウルトラマンが怪獣を超人的な能力で撃破する人であると考えていればブレンデルやポリーニ、必殺光線ならコヴァセヴィチのタッチから繰り出される音色ということにもなろうが、ウルトラマンは地球人に親愛の情を抱く慈愛の人でもあると知ればヴェデルニコフはまさにその点での最右翼の解釈をしてくれている。。。
そこへいくとギュラーなんかウルトラの母みたいだが、実はそんなに強くない・・・気もするのが惜しい。
が、ヴェデルニコフについては、実はとっても強いんだと確信できるものがある。。。
というのは、これも喩えが素っ頓狂だが女子プロゴルフの岡本綾子プロの絶頂期のビデオを見たとき、全身を使ってどこにも力など入っていなさそうなスィングに見えて、上半身を隠すと屈強な下半身、何がぶつかってきてもびくともしそうにないぐらい大地に根の生えた下半身が、やはりしなやかに、もちろんスウェーなどするはずもなく仁王立ち(?)していたのを思い起こさせるぐらい、この演奏のポテンシャルには安定感がある・・・のだ。
いずれにせよ、この演奏を再発見できて嬉しかった。
折りに触れて、また聴きなおしてみたいものだ。
なお、ヴェデルニコフのショパンのピアノソナタ第2番のディスクも持っており、こちらもディスカヴァーするべく聴いてみた。
驚いたことに、ふつういかめしく弾かれることの多いベートーヴェンを親しみやすく弾いているヴェデルニコフは、ショパンではむしろ武骨に毅然とした態度でピアノと対峙しているように思われる。
これも出色の演奏であるとは思われたが、厳選された・・・うそ、たまたま思いつきで耳にしてアップする機会に恵まれた・・・ディスクについて述べるようにしているので、詳細はまた機会を改めることにする。
今年の予定を鑑みるに、アップできるのはきっと今日が最後になるだろうと思われる。
言いそびれるといけないので、今述べておく。
みなさん、めりー・くりすます&良いお年を。
来年もよろしくお願いします。(^^;)
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