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カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

本のリユース・フェアー

2023-02-07 12:43:00 | 本と雑誌

 朝から雨がショボショボ降っている。

 気温はそれほど下がっていなくて起き出すのが苦にはならなかった。

 

 (午前中の空)

 午後からは天気も回復に向かうとの予報だが、一向にその気配はない。

 図書館のリユース本フェアーに出かけてみた。

 

 (ゲットしたリユース本)

 今年は除籍対象の本が少ないようだった。

 初日は混み合うので、ゆっくり残り物の中から掘り出し物を探すことに。

 がらくた市でもそうだが、面白そうなものを見つけるのが楽しい。

 今回はハウ・ツーものや、青春小説のようなものが多かった。

 ページをめくったりして覗き込んでいる人も、いつもより若い人が多い。

 短編集2冊と、ちょっと知っている著者の本を持ち帰った。

 家には去年のリユース本がかなり控えている。

 

 (昨年のリユース本)

 昨年も、初日を外して人出が減った頃に出かけた。

 去年は、今年の3~4倍は本があったから残り物も多かったのだが・・。

 読み終えたものは、本の持ち込みコーナーの本棚に入れておく。

 先日5冊ほど持ち込んだが、数日でほぼ無くなっていた。

 この「本の持ち込み・持ち出し自由コーナー」は図書館の入り口に近い玄関脇にある。

 3ヶ月ほど前から、日本文学全集が数十巻並べられていたが、今は半分くらいに減っている。

 断捨離や、自宅の本棚を整理したい人には良いシステムだと思う。

 「よく降るねそっと呟く雨男」・・・しろ猫

 まだ雨は上がらない。

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読書の秋

2022-10-02 10:40:40 | 本と雑誌
 
今日から10月

 今日から10月になる。 早いものでアレヨアレヨと言う間に今年も残り3ヶ月。  机の前のカレンダーも、ルノワールの「読書する女」に変わった。 10月には趣味に......
 

 去年のブログを見ると、やっぱり昨日から10月だと月日の流れの早さを嘆いている。

 そして、読書の秋だとも・・。

 本の殆どは、町の図書館の本ばかりで2週間の貸し出し期限毎に3~4冊借りている。

 町の本の持ち出しコーナーも私的には盛況で、去年の10月以降20冊以上も持ち帰った。

 この間、自分で金を出して買った本は10冊にも満たない。

 期限のある図書館の本の読書が最優先で、持ち帰りや購入した本は後回しになってしまう。

 持ち帰りの本も、読んでしまえばまた他の人の為にコーナーに戻しておけばいいのだが、つい疎かになって本箱に溜ってしまう。

 チャレンジウオーキングで現在「奥の細道コース」を歩いていて、つい本屋で奥の細道を買ってしまった。

 芭蕉の歩く速度や、追っかけるウオーキングの現在地に読書が追いついていない。

 

 (松尾芭蕉「奥の細道」:長谷川櫂著)

 私のウオーキングは現在「象潟」を過ぎた辺りを通過中。

 1185km(182万4307歩)を歩き、ほぼ中間を過ぎた辺り。

 「文月や六日も常の夜には似ず」

 「荒海や佐渡によこたふ天河」

 出羽を去り越後に入る頃は、季節も晩夏から初秋七月(文月)。

 紀行文の中で、越後の句は少なくその後の展開に繋げているという。

 ただ、句の広がりは宇宙まで及び、小さな人の営みと対比させているのかも。

 芭蕉の足に、実際のウオーキングがなかなか追いつけず、読書に至っては遅々として・・。

 季も良し、秋の夜長に少し読書の歩幅を伸ばさねばと思うこの頃。

 「季は花に憂いは本に聞いてみる」・・・しろ猫

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図書館の除籍本をいただいた

2022-02-05 14:53:01 | 本と雑誌

 ここ九州でも、雪になる確率が高いというのが、昨日の予報だった。

 朝起きてみると、なるほど雪がチラチラ舞っている。

 北西の冷たい風のおまけ付きだった。

 

 (雪で迫力を欠いた太陽)

 積もったりする気持はない様子の雪だったが、太陽は霞んでいた。

 午前中は、相方と完全防寒仕様で図書館に向かった。

 図書館が古い本のリサイクルとして、除籍済みの本を持ち帰り自由の状態で展示を始めたのだ。

 沢山の人達が、段ボールに入れられて床に並べられた古本にたむろしていた。

 旅行本は3冊までだが、その他は何冊でも持ち帰りOK。

 

 (持ち帰った本)

 私が7冊、相方は気に入ったものが無かったのか2冊くらいを持ち帰った。

 返納期限がないので、ゆっくり読むことにする。

 図書館が棚卸しのような整理期間に入っているので、現在借りている3冊も返本期日は15日に伸びている。

 当分読み物には不自由しない。

 午後からは、風が強くて冷たいので堤防の下の南側道路を歩くことにした。

 

 (南東の空)

 

 (北西の空)

 南東と北西では対象的な雲行きである。

 金峰山の霞んだ様子から、雲は雪を降らせながら近づいて来ている様子。

 ただ、この雲も筋状になっていてこの雲から外れた所は太陽が降り注いでいる。

 

 (春の小川)

 雪が降る前に帰り着こうと急いだが、雲が外れてしまって陽光が射し始めた。

 川面も逆光でキラキラ輝き始めた。

 鴨もまだ沢山水に浮かんでいる。

 そうなると、ゆっくり歩きたくなる。

 今夜は、昨夜に引き続き国際宇宙ステーションが頭上を飛ぶ予定。

 雲が無ければ良いがと思う。

 雲が出ればもちろん、本を読むしかない。

 「越冬も選択肢だと渡り鳥」・・・しろ猫 

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音読で口周りの運動を

2022-01-06 15:45:42 | 本と雑誌

 夜半から降り始めたらしい雨も、新聞を取りに行く頃は上がっていた。

 放射冷却が無かったためか幾分暖かめの朝だった。

 しかし雲行きは目まぐるしく変化した。

 

 (青空と白い雲と黒い雲)

 

 (黒い雲の切れ間から青い空も)

 ただ、降りそうにはなかったので借用期限の図書館へ返本に出かけた。

 

 (図書館に出かけた頃の空)

 6冊借りて正月を乗り切ろうとしたのだが、意外と1冊だけ読みおおせなかった。

 引き続き借りることも可能だが、少し間を置くことにした。

 本屋で購入するつもりの本が、たまたま図書館に有ったので借りてきたのだが・・。

 手元に置いてその都度見たい本は、やはりあるものなのだ。

 今日は、2週間後の返却日まで読み終わりそうなものばかり借りてきた。

 

 詩集ばかりを7冊借りてきた。

 最近滑舌が悪くなったので、音読で顎や口周りの運動をするのも悪くないだろう。

 音読でも、このくらいの字数ならなんとか返却日には間に合いそうだ。

 試しに、茨木のり子「自分の感受性くらい」を音読してみたら、なんと!舌が上手く回らなかった。

 詩人の魂を込めた一字を、飛ばし読みをすることがしばしばあった。

 目で見て読んで、己の口から発した言葉を耳で聞くということは、健康にも良いことかも・・。

 そう言えば、謡曲を1曲謡うと肺の中までスッキリした気分になるのに似ている。

 「半音を上げて世間の輪で歌う」・・・しろ猫

 独りなら、その必要もないし・・。

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私のグレート・マザー・ランド

2021-08-26 13:23:26 | 本と雑誌

 最近図書館から借りてくる本は詩歌が多い。

 先週は詩の本を2冊。

 

 「グレート・マザー・ランド」葉祥明(著)学習研究社(刊)

 

 「こころのワンダーランド」葉山祥鼎(著)学習研究社(刊)

 二人は2歳違いの兄弟で、南阿蘇を故郷とし兄の葉祥明は、画家・絵本作家・詩人。

 弟の葉山祥鼎は、童話作家・エッセイスト・写真家として活躍している。

 この2冊の詩集に共通の写真は弟の作品で、阿蘇の四季折々の風景が背景として描かれている。

 

 (南阿蘇)

 これは先日阿蘇に出かけた折に私が写したもの。

 かの兄弟の思い描く故郷の姿でも写真でもないと思う。

 一人一人の思い描く故郷の風景には違いがある。

 そこでふと、我がマザーランドと言える風景に思いを致すこととなった。

 先日お盆のお墓参りのついでに寄った道の駅で、子供の頃から見慣れた風景に、ついカメラを向けてしまった。

 

 (鞍岳)

 子供の頃の校歌にも出てくる山で、ある意味母なる山とも言える。

 

 (八方ヶ岳)

 故郷の山というには少し遠いが、集落の高台に上がればこの2つの山はセットで見える。

 道の駅ではカメラを45度ほど左に振っただけである。

 

 この一枚は、一緒にメモリーに残されていたもの。

 何の変哲もない、ただの林だが実はお墓の直ぐ横の雑木林とその手前に植えられた桜の木々。

 この林の横の墓地で、先祖が眠っている。

 土葬が当たり前の時代からなので、一人が亡くなると一つ穴を掘って葬るということの繰り返しで、次第に墓地は広くなる。

 さすがに火葬の時代になると墓地の地籍の問題もあり、土葬も火葬にして再埋葬することが行われた。

 我が家も幾つかあった墓を一つにまとめた。

 地震で倒壊したときは、骨壺の全てを車に積んで自宅に持ち帰り、お墓の再建までの間仏壇の前に安置させて貰った。

 どういうわけか、その間は沢山の先祖の夢を見た。

 ある意味、もっとも先祖を近く感じた期間だった。 

 

 山懐に抱かれた村々と、何処とも説明のしようもない林の一角が私のマザーランド。

 再建した墓の建立者には、私のマザーランドを承知するべく子供達も名を連ねている。

 そんなに遠くない将来に、エンドロールは流れる。

 その時のシーンは、この山がアップから少しずつ引いていくのがいいだろう。

 「末路とは判っていても未来追う」・・・・しろ猫

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もっこす猫の憂鬱

2021-05-01 16:40:53 | 本と雑誌

 隣の猫が、びっこを引きながらトボトボと庭にやってきたのが1週間くらい前のこと。

 幾分スリム、というよりもやつれた感じで。

 不貞不貞しさと迫力があった以前とは似ても似つかない風情。

 毎日というか、日に3~4度は顔を見せていたので、急に何日も来なくなると流石に心配した。

 ここ2・3日で大分復調し、びっこの脚もオドオドした感じも日ごとになくなってきた。

 

 それでも、やけに沈んだ顔で、縁石の上でぼ~っとしていたので大丈夫かと声を掛けた。

 以前に、思い出したように着けてもらっていた首輪は、着けていなかった。

 

 幾分顔色が冴えないし、いつもは挑戦的な鳴き声も、普通の猫並に小さくニャん程度。

 何とも、情けないというか、普通の猫に・・。

 脚を痛めたのは、事故か喧嘩かの何れかであろうが、多分に喧嘩の公算が大である。

 去勢されているとはいえ、元は雄猫で縄張り意識は人一倍(おっと猫一倍)。

 この猫が来なくなった間に、野良が頻繁に顔を出すようになっていたが、復帰後は来なくなった。

 

 先週から借りている本は猫に関するもの。

 村松友視著の猫踏んじゃった俳句を読んでいるが、なかなか面白い。

 俳句はよく分らない、等とことわりながら、猫がらみなら書けると古今東西の俳人の猫の句を披露する。

 ことの起こりは、内田百閒の「ノラや」から・・。

 

 内田百の猫にまつわる顛末が面白く読ませるが、その俳句の師匠たる夏目漱石ともまた猫つながり。

 久しぶりに2冊とも引っ張り出してしまった。

 

 文人というのは、俳句もよくやるが、猫も身辺をウロウロしている。

 川柳の世界でも、猫と孫は句の材料として詠まれることが多い。

 ただ、可愛いに決まっている猫と孫を句材にするのは憚る向きもある。

 作品で、あっさりと最後は猫を殺してしまう漱石も凄いが、最後までノラやノラやと未練がましい百閒も凄い。

 そこから派生させて、本を一冊ものにしてしまう村松友視もさすが。

 俳句は素人でわからない、などと言いながらよくもまあ、これだけ猫に関する句を集めたもの。

 私も今を去る10年前に、亡くなった猫を主人公に文章を書いたことがあって、今でも残している。

 

 表題は「吾輩も白猫である」副題は「モッコス猫の方言録」などと、まあまあ。

 表紙に使う写真だの、所々に入れるカットの代わりの写真だのは見たことのあるものばかり。

 久しぶりに引っ張り出して読んでみたら、本人的にはそれなりに懐かしい。

 実際は猫のいた頃から書いた文章なので、20年近く前のものもある。

 懐かしくも面白いのは、語彙や表現が今よりずっと豊かだったということ。

 隣の猫の話も、昔ならもっと違ったものになっていたはず。

 今ならさしづめ「モッコス猫の憂鬱」

 「表紙なら厚さで勝負する詩集」・・・・しろ猫

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積ん読本の減少作戦発動

2020-08-28 10:00:41 | 本と雑誌
 ステイホームと言うわけで、一日の大部分はPCの前に座ったり、ぼ~っとしたり。

 せっかくなら涼しいところで寝っ転がって本でも読もうかなどと。
 
 中古の本屋から買ってきて積んでおいた本を読むことにした。

 図書館から借りた本は、返却期限があるので優先的に読む。

 買ってきた本は、いつでも読めると思っているのでなかなか本棚に手が伸びない。

 で、4・5日前から「積ん読本」減少作戦を展開中。

 
 (私を離さないで)

 「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ(著)土屋政雄(訳)2008・8第1刷2017・10六十六刷 早川書房(刊)

 日本生まれのイギリス人作家、カズオ・イシグロの第六長編小説。

 文庫本で約450頁、読み始めて100頁くらい読み進むと内容の容易ならざることに気がつき始めた。

 当初から意味不明の部分があるが、不明のまま読み進むしかないと読み進むとやがて厭でも分かってくる。

 とても重大な事が、抑制の効いた文章で綴られていく。

 細部にわたり入念に構成され、そしてその内容は仰天の一言。

 今まで積んで置いて、申し訳なかったと思った一冊で、私的には本年第一番の「星5つ」だった。

 
 (赤い指)

 「赤い指」東野圭吾(著)2009・8第1刷 2018・3第48刷 講談社(刊)

 これも、本棚積ん読本2冊目で、私的には東野圭吾はお初にお目にかかる。

 推理小説だが、一般的な謎解きとは趣を異にする。

 あえて捜査する側とされる側のそれぞれの家庭や人間関係の葛藤を描いている。

 内容は切実過ぎるし、今の日本なら何時でも何処でも起こり得る可能性を包含していて恐ろしい。

 同じく刑事をしている二人の従にとっては、父親であり伯父である入院患者の病名が「胆嚢と肝臓の癌」というのが現実味があった。

 昨年亡くなった義母と病名も、亡くなるまでの病状進行過程も全く似通っていた。

 不思議な臨場感に、ついつい一気読み態勢になってしまった。

 

 小説というのは如何なるジャンルであれ、推理の要素は含んでいる。

 物語の次なる展開を読者は推理する。

 その読者の思惑を、いかに裏切るかというのが作者の腕の見せ所なのだ。

 「わたしを離さないで」は近未来の不気味さを予想させ、「赤い指」は現実社会の泥沼を描く。

 2冊の本を、積ん読状態から解放したのは正解だった。

 まだ積んである本を横目に見つつ・・。

 「季は花に憂いは本に聞いてみる」・・・・しろ猫

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言葉と表現

2020-01-18 19:07:20 | 本と雑誌
 久しぶりにウオーキングで1万5000歩以上を歩いてしまった。

 最近は1週間に25000歩も歩けば上出来だったので、少々歩き過ぎの感もある。

 行きは良いよいで、帰りはかなり足に来た。

 8000歩以上を3日くらい続ければ以前なら普通に元に戻っていたが、果たして今はどうだろう。

 少し歩く回数の頻度を上げてみようかとも思うが・・。

 久しぶりに歩く場所もあって、ちょっと懐かしい物にもお目にかかった。

 

 以前に歩いた時も、恐竜の骨格モデルのようなものが屋根に乗っているお宅があったが、まだ屋根の上で健在だった。

 家のデザインや色使いも少し変わった感じなのだが、一番目立つところの屋根の上の恐竜の意味するところは判然としない。

 こうした造形物等は、意外と受け取る側の感性に委ねるところが多くて、どうにでも解釈してくれというものが多い。

 それでいいのだろう。

 ただ、自分の思いを明確にする目的で表現しようとする分野もある。

 そのことについて、一年前の自分のブログを懐かしく読んだ。

 阪神淡路大震災の記念日であり、東日本大震災と熊本地震を経験した後、やや落ち着いた頃のブログである。 
表現の限界と垣根
 近頃短詩型の文芸物を読むことが多い。 同じ俳句でも、同じ短歌でもいろいろあって面白い。  (俳句と和歌)  (詩・短歌・川柳) それぞれ、その分野毎に許容の範囲......

 俳句で悲惨さを詠めないので、短歌で表現したという俳人をやや揶揄したように論じている自分がそこに居る。

 何故自分の正面の俳句というものでチャレンジしないのかと、結構偉そうなことをのたまっている。

 枠を設定し、その枠ゆえに表現にはおのずから制限があるのだと限界を認めてしまうのかと・・・・。

 しかし今年になって、同じ俳人の「俳句の誕生」という一冊を読んで、すっかり考えを改めさせられた。

 ハッと息をのむ感動の瞬間が、相手に伝えようとして言葉を使用することで、直感で得た感覚とは違う形で伝わってしまう。

 

 言葉は、誰にでも同じように分からせるために一般化される。

 美しさを表す言い回し等、語彙を増やすことで多様化されてきた言葉の文化も、時代と共に消し去られてしまう。

 「かわいい」という言葉が、特に女性の間で多用されるが、これは多分におおくの語彙を集約して表現してしまっている。

 見た目がかわいい、小さいからかわいい、話し方がかわいい、生き方がかわいい、などなど・・・。

 一まとめにして「かわいい」で済ませれば簡単ではある。

 そのうちにAIが理解しやすい用語辞典などが出来たりして・・・。

 そう言えば、屋根の造形物も単に「恐竜」と呼んでしまっては拙かったのかも。

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本の再利用

2019-06-05 17:52:57 | 本と雑誌
 図書館の本を2冊返却に行って、1冊借りてきた。

 相方は10冊くらい返して、5冊くらい借りていた。

 なんでも借りたいと思っていった本が既に借りられていたらしい。

 交流会館には誰でも利用できるコーナーが設けられていて、パソコンが5台くらい設置されている。

 椅子やテーブルもあって、子供達が宿題を持ち寄って勉強していることもある。

 その一角に本のリユースコーナーがあり、どっと持ち込まれてはジワジワ減っていくということを繰り返している。

 

 今日覗いてみると、なんと又もや全集が持ち込まれていた。

 松下幸之助の講演などをまとめたもので、この全集は40数冊が並んでいた。

 全集としてまとめた出版社も凄いが、これを全集として購入した人にも驚く。

 以前持ち込まれた美術全集も、半分くらいはもう持ち出されているし、その他の本も半数近くは出払っているようだ。

 利用者はけっこういるようだ。

 かく言う私も実は2冊持ち帰っている。

 図書館と違うのは返却期限が無いということと、どのような利用をしようと再利用者に任されていることだろう。

 私も本を処分するときは、ここに持ち込みたいと思う。

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読書は心の栄養

2019-05-09 09:56:37 | 本と雑誌
 読書は好きである。

 好き嫌いはないと言いつつ、選ぶ権利は行使する。

 それも紙の本で、図書館から借りるとか、中古の本で安かったら言う事は無い。

 奇しくも同じような傾向の本を、借りたり買ったりしてしまった。

 単に題名が変わっていたり、作者に興味があったというだけなのに、偶然にも何となく傾向が似ていた。

 先ずは女性編。

 
 「日本のヤバい女の子」はらだ有菜(著)2018.6柏書房(刊)

 図書館から借りた本だが、昔話に登場してくる女性例えば「浦島太郎」の乙姫、「竹取物語」のかぐや姫、「古事記」のイザナミノミコト等々。

 いずれも残酷・身勝手・きまぐれ・猟奇的・不親切と問題山積みの女性達。

 さてコーヒーでも飲みながら「ね~ね~、ちょっと聞いて・・・」と決められたストーリーから抜け出した彼女たちに本音を語らせようという試みとは面白い着想の本。

 「思い出トランプ」向田邦子(著)2018.11新潮社(九十刷)

 これは普通の本屋で買っただが、半額くらいのシールがはってあったので買ってしまった。

 浮気相手の部下の結婚式に妻と出席する男、かわうそのような残忍さで夫を翻弄する妻など13編が収められている。

 何処にでも有りそうで誰もがもっている弱さや、ずるさ、後ろめたさ等が日常生活の中で描かれていく。

 登場人物には散々迷わせておいて、キリッと一本背骨を通す向田邦子の目線が涼しい。

 さて、次は男性版。

 
 「文士の遺言」半藤一利(著)2017.3講談社(刊)

 図書館から借りた本で、なつかしい作家たちと昭和史ということで、作品や論評などから昭和史をどう捉えていたかを述べている。

 森鴎外、菊池寛、永井荷風、司馬遼太郎、松本清張等、編集者としての長い経歴の中での付き合いや、作品を通じた思想などが昭和史探偵という異名を持つ著者の手によって分析されていく。

 「司馬遼太郎で学ぶ日本史」磯田道史(著)2018.1NHK出版(刊)

 これも向田邦子と同じ場所で売られていたものを買ったもの。

 戦国時代の下克上、幕末維新の大転換、昭和前期の破局など司馬遼太郎が捉えるパターンとしての歴史。

 国民性といったものは、100年や200年ではそう簡単には変わらない、であるなら司馬遼太郎が「歴史小説」の中で言う「日本人の、くせ、たたずまい」という観点から司馬遼太郎作品を見詰めてみようというというのである。

 最終的には、半藤一利(著)の昭和史探偵の目指す昭和前期の過ちの分析に行き着く。

 女性陣が人間の内面を曝そうとするのに対して、男性陣は歴史の中にある国民性の弱さの部分を曝そうとする。

 新しい令和の時代を迎えても、決して置き去りにしてはならない内容が多すぎる本達だった。

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