Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆島原の乱が宗教戦争だったというのはウソ

2021-01-20 03:50:48 | Weblog



一揆勢が立て籠もる原城跡の包囲図。
幕府軍の損失も大きく、一説には8000人が命を落としたと言われている。



島原の乱というと、「幕府のキリスト教禁教政策に反対する宗教戦争」というイメージを抱いてる人がいるかも知れない。確かに、反乱が起きた地域はキリスト教徒が多かったし、リーダーの天草四郎も熱心なキリスト教徒だった。
しかし、この反乱は信仰の自由を求めた人々の他に、過酷な年貢に反対する為に加わった人も多かったことから、宗教戦争だとは認められていないのだ。つまり、島原の乱は悪政への反乱だったのである。
反乱の舞台となった島原半島・天草島は嘗てキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地だった。その為、領主に倣ってキリスト教に改宗する者も多かったが、新領主としてやって来た松倉氏と寺沢氏は絵に描いた様な悪領主で、キリスト教徒を弾圧しただけでなく、領民に対して厳しく年貢を取り立てる最悪な人物だった。特に松倉勝家は、凶作だろうが旱魃だろうがお構いなしに重税を課し、更には村から人質を取って拷問をするという残忍ぶりで、これには領民も耐え切れなかった。そして1637年、天草四郎をリーダーに農民、漁民、商人、更に有馬氏の旧家臣などが加わる大反乱が勃発した。一揆軍は領主方の城を攻撃し、その後、有馬氏の城だった原城跡に3万人以上が立て籠もって交戦した。この様な騒ぎに松倉氏と寺沢氏が対処できるはずもなく、幕府や九州中の大名を巻き込む大騒動となってしまった。それから凡そ4か月後、約12万人の兵力を動員した幕府・九州勢が一揆を鎮圧したが、領主の松倉勝家は領地経営の失敗の責任をとらされ斬首、寺沢堅高は天草領を没収されるに止まったが後に江戸で自害した。250年以上続いた江戸幕府の治世で、斬首となった大名は松倉勝家のみである。
一揆軍はというと、籠城した者はことごとく殺され、原城も破戒された。両勢に大きなダメージを与えたこの戦争にキリスト教の信仰を守る為に戦った者がいたのは事実だが、領主の経営に不満を抱いて反乱に加わった者の多さから、この反乱で死んだ者は殉教者という扱いを受けていない。その為、近年では百姓一揆だったことを強調する為「島原・天草一揆」と表記する教科書も増えている。




              教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                         戦乱と歴史のウソ







この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ◆十字軍よりイスラム軍の方が... | トップ | ◆保元・平治の乱が源氏と平氏... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事