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◆豊臣家を滅ぼし、太平の世を築いた 徳川家康に囁かれる、大坂夏の陣での「影武者」説

2019-02-17 04:06:44 | Weblog

慶長20(1615)年、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして戦乱の世に終止符を打った徳川家康は、その1年後、徳川家と江戸幕府の安泰を見届けるようにして没した。死因は鯛の天ぷらにあたたった為と謂われている。
ところが、家康の生涯には不可解な伝説が纏わり付く、家康は影武者とすり替わった、つまりは途中から別人だったという伝説である。有事の際に武将の身代わりとなる影武者の存在は知られるが、影武者自身が家康に成り替わっていたーーーその様なことが有り得るのだろうか。
その根拠の一つとされるのが、堺の南宗寺だ。家康は神格化され日光東照宮に祀られているが、この南宗寺は家康を密かに埋葬した場所とされ、何と家康の墓が伝わっている。しかも寺の瓦には徳川家の葵の紋があしらわれ、家康の子で二代将軍の秀忠と孫の三代将軍家光が詣でたという記録もあると謂う。これはいったい、どういうことなのだろうか。
大坂夏の陣の際、城の防備を失っていた豊臣方は、大坂城い攻め寄せた徳川方に野戦を挑んだ。中でも真田信繁(幸村)は、家康の本陣に向けて数次に渡る猛烈な突撃によって、家康に死を覚悟させたと謂われる。
史実では、家康は命からがら撤退に成功したとされているが、南宗寺の墓に纏わる伝説では、実は戦死していたと謂う。逃走中に流れ弾に当たったとも、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛に遭遇し、槍で突かれたとも伝えられる。
徳川方としても、総大将が討たれたことを公にするわけには行かない。そこで家康を近くの南宗寺で埋葬し、影武者とすり替えた。そして1年後に、天ぷらの食べ過ぎによる病死という形で、影武者を毒殺したというのである。
気になる影武者の正体は、僧侶・恵最とも謂われる。家康の双子とも異母兄弟ともされるが、記録の少ない謎の人物で、家康の死亡後、二代将軍の秀忠に頼まれ、よく似た彼が本物に成りすましたのではないかと謂う。
並木伸一郎氏の「戦国武将の都市伝説」によると、家康に成りすました恵最は危篤に陥った際、見舞いに訪れた伊達政宗に「甥の秀忠をよろしく」と言い残したと謂う。息子ではなく甥。この一言に影武者の謎が秘められているのではなかろうか。

*明治になって家康別人説が浮上
 かくして徳川家の最大の秘密となった影武者説は、江戸時代を通じて秘匿されていた。
この説が初めて世に出たのは明治35(1902)年である。東海地方の役人の村岡素一郎が「史疑徳川家康事蹟」で、家康別人説を提唱した。ただしこの説では、桶狭間の戦いで今川家から独立した数年後に本物の家康は亡くなり、世良田二郎三郎元信という家康の親族(願人坊主とも)が家康にすり替わったとある。
我々が知る徳川家康は、影武者たちが作り上げた人物だったのだろうか。

画像・本物の家康が眠ると謂われる大阪府堺市の南宗寺

                日本史ミステリー
                  語り継がれる、「歴史ロマン」あふれる伝説

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