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聖徳太子 (574~622年) 飛鳥(現・奈良県) 風水でわざと子孫が残らない墓を建てた?

2017-07-16 12:05:31 | Weblog


日本に於ける最初の偉人、聖徳太子。近年は本名の「厩戸皇子」と表記されることも多いが、
その生涯は数々の超人的な伝説で彩られている。
その中でも、特に興味深いのは、聖徳太子が予知能力を持っていたと云う伝説だろう。
いや、伝説と云うのは正確ではない。
日本の公式史書である『日本書紀』にも、太子は「兼知未然(あらかじめ未来のことを知っていた)」と記されているのだ。

予知の力が最初に発揮されたのは、太子が5歳の時だったと謂う。
その年、時の大王である敏達天皇が、太子の叔母に当たる豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を大后(後の皇后にあたる位)にした。
その祝いの席でのこと、太子は居並ぶ群臣を尻目に、真っ先に大后に近づき、最大の敬意を込めた拝礼をしたと謂う。
侍女が後に、この行為の理由を尋ねたところ、「豊御食炊屋姫はいずれ大王になるからだ」と答えたのだ。

当時の日本には女性が天皇になると云う例がなく、太子の言葉も子どもの戯言と思われた。
だが、彼が正しかったことは、14年後に明らかになる。
この豊御食炊屋姫こそ、後の推古天皇なのである。

成人した太子は、自らが感得した未来の姿を、『未来記』と『未然記』と云う2冊の書にしたため、大坂の四天王寺(太子が建立した)に残したと謂う。それから約700年後に書かれた『太平記』には、南北朝時代の楠木正成がそれを見たと記されており、江戸時代には幕府の命により禁書になっている。

一方、太子は日本初の「風水師」でもあった。それに関してはこんな逸話がある。
太子は時折、民の生活を知る為に諸国を巡察していた。その道中、河内国磯長(現在の大阪府南河内郡太子町付近)を通りかかった時、地に5色の光があるのを感得する。その地を霊地と見定めた太子は、そこに自分の墓を建てることにした。
当時の墓は横穴式の石室だったが、その建築中、彼は何度も自ら足を運び、常識では考えられない様なことを言い出すのである。それは、墓を風水的に凶となる様に建てろと云う指示だった。

風水と云うのは、今から2000年以上前の古代中国で発達した家相学で、太子は日本で初めてその知識を学び、実践した人物でもある。
本来、風水では子孫繁栄を願って「陰宅」、つまり墓を吉相になる様に建てる。
だが、彼は工事の者に「子孫が残らぬ相になるよう、あそこの気を断て、ここを断て」と命令している。
つまり、太子は自らの子孫が絶える様、画策したと謂うのだ。
恐ろしいことに、太子のこの目論見は、その死後に現実のものとなってしまう。

太子自身は621年に母を、翌年に妻を亡くし、その翌日、まるで妻の後を追う様に、太子もこの世を去ったと伝えられる。
そして、643年には、息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)以下、上宮(じょうぐう)王家と呼ばれていた太子の子孫が、何と全員が自殺してしまったのだ。当時、朝廷で絶大な権力を持っていた蘇我入鹿に追い詰められてのことだった。

こうして聖徳太子の一族は、彼の望み通り滅んでしまう。
しかし、何故太子がその様なことを望んだのかは今以て謎だ。
いったい太子は、予言の力でどんな一族の未来を見てしまったのだろうかーーー。






(画像・聖徳太子の肖像画の数々、太子とその母、妻が眠っているとされる大阪・太子町にある叡福寺の聖徳太子廟)

         

     




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