三代目市川団之助 『染繮竹春駒』「四季之所作の内」 (早稲田大学演劇博物館所蔵)
三代目市川団之助(1786~1817)は四代目市川団蔵の子で、
美貌とまでいえずども、細面で芸域も広く腕のある俳優。
美貌とまでいえずども、細面で芸域も広く腕のある俳優。
文化三年(1806)、上方から江戸へ下って来て、江戸市村座の舞台で活躍した女形であった。
興行はいわゆる水もので、当たれば収益が大きいが、外れると途端に左前となる。
江戸には当時、官許の劇場が三つあって、中村座・市村座・森田座が櫓(興行権)を持っていて、本櫓と称した。
もしこの本櫓が経営不振に陥った場合は控櫓という制度があって、中村座の代わりに都座、市村座には桐座が、森田座には河原崎座が、代理興行を打つことができた。
市村座は文化期(1804以降)に入ると不入・不当たりの興行が多く、経営が困難となり興行権を手放すこととなる。
そこで団之助が金を出し、桐座として再出発。
桐長桐という者が名義人になっているが、実際の運営は団之助が行なった。
ところが、これまた不入り続きで借金だらけとなり、そこへ文化十四年(1817)正月、火事で劇場が類焼、
ようやく三月に再建したものの、やはり経営難となり、十月には都座に転売となった。
責任を強く感じた団之助は思い詰め、遂に十一月二日(実は十月三十日ともいう)自刃して果てた。
書置は三通あり、一通は妻宛て、一通は母親宛て、もう一通は息子(後の四代目団之助)宛てで、
悲痛極まる心情が記されていた。三十二歳の若さであった。
ようやく三月に再建したものの、やはり経営難となり、十月には都座に転売となった。
責任を強く感じた団之助は思い詰め、遂に十一月二日(実は十月三十日ともいう)自刃して果てた。
書置は三通あり、一通は妻宛て、一通は母親宛て、もう一通は息子(後の四代目団之助)宛てで、
悲痛極まる心情が記されていた。三十二歳の若さであった。
一説には昨年、瘡毒(そうどく)という病気で鼻が落ち、発声がままならず、それも死因の一つだったという。
所作事を得意とし、なるべく台詞を言わぬ役を選んだのもそのせいか。
死後の噂┈┈┈┈前年の五月三日、狂言不評判の為、芝居の開演前に繁昌の祈祷を行ない、
下谷善立寺の僧十人を呼んで経を読んでもらってる最中、舞台の梁がポッキリ折れて落下、
幸い怪我人はなかったものの大騒ぎとなった。
この松材は程ヶ谷の杉山大明神の松を伐り出して用いたもので、神木の祟りかと恐れる向きもあり、
怪事件として記録され、団之助自殺もこれに絡んで噂された。
喜多村信節(きたむらときのぶ)『聞のまにまに』という随筆の中で
「怪しい事件のように言うが、雨水が材木に廻って、少し腐った個処があった為だ」と記している。
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江戸時代 怪奇事件ファイル