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玄徳道

道を語るブログです。

適当道

2012-05-25 06:20:01 | 人倫
適当とは、当(まさに)に適することです。いい加減な行動ではないです。
神気を確信し、覚神に至る道に、四つの法があります。
坐り自らの真奥を探す旅、これを瞑想、坐禅と称します。
自己の気の流れを感得し、自然の気の流れをつかんだり気を放出して人を癒したりします。気功法又は、仙道と称します。
自己の心を無心にして、神と直に接する行法を行います。神憑りの法、又は、鎮魂法、帰神法と述べます。
無為自然のままに、物や人、環境に支配されず、悠々自適に過ごします。これを惟神と申します。

瞑想や坐禅は、自己のみを見続けて阿頼耶識に囚われると深奥のカルマに侵されることもあります。
気の流れを人為の強制で支配しようとするとよって反発するエネルギーが即座に生まれます。これを亢魔と呼びます。
精神を統一し、審神の学を為し、自らに神を降臨させようとしても神は気高い心に感応するが、誰もがもつ低俗な心にも魔が即座に感応し高次の神気を維持出来ません。
無為自然の適当であれば自らを高めようとする努力はしません。

適切に日常生活と瞑想の中で自己を観ればカルマに囚われず、高次の自身知ることが出来ます。
適当に気の運行をなし、慈愛の心で気を適切に処理すれば亢魔の動きは和らぎます。強制の無い気は体の隅々に廻り踵で呼吸をする仙人と成ります。ちなみに先天坐も極まっていきますと肺呼吸を超え体全体で呼吸する胎息と成ります。
神憑りの欲望を捨て適切に鎮魂の道を歩めば無意識の意識が神気と交わり、自然に神との一体意識が生まれます。

当(正)に適する心を持てば全てを統括し、根源神に回帰する道となるのです。

適の道は亀の歩みの如く進歩するけど急がないということです。緩慢であるが確実に根源に帰還するのです。自然は忙しくありません。

「世の中は目が回るほど変遷します。しかし、道には忙しさはありません。あるがままに、なすがままに、穏やかで優しいのです。あわてず、騒がず、のんびり、適当に生きましょう。」

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感謝道

2012-05-23 21:39:21 | 人倫
感じる言葉を瞬時に討つ如くに述べる。これを感謝と申します。
神社や仏閣にお参りしましたら、何気なく、「神様ありがとう。」「仏様ありがとう。」と思う気持ちですね。ふとした時に父や母が大切に育ててくれた事を思い出し、「父ちゃん、母ちゃんありがとう。」と言う気持ちです。ここに利害や損得を考えだすと感謝では無くなります。
感謝は思いやりを感化され述べる真心の言霊です。思いやりは愛であり仁道であります。即ち、感謝とは思いやりから発射される真言(まこと)なのです。
眼に見えぬ大自然、精霊、神様に「生かしていただいて、ありがとうございます。」と言う言葉が出るのであれば素晴らしいですね。しかし、伊勢白山道リーマン氏が述べるように最強の祝詞であると思い、これを述べれば、仁の心から離れてしまいます。
何を以って最強なのでしょうか。神様に奏上する祝詞に最強も最低もありません。そして、神様は最強も最低も求めてはいません。

人に親切にされたら素直に感謝しますね。これが愛の発射、仁であり真心です。

感謝を思念に代えることを感謝想起と述べます。これは、瞬時の感謝ではありません。それは思想で唱える、偽りなる感謝です。これにより災害を抑えたりすることはないです。魔を消したりも出来ません。
何故ならば、神様は感謝される事を望んでいません。感謝しようが、しまいが、神様は人を大事にされています。
反対に低級で神の如くに居座る邪霊は感謝されることをすごく望んでいます。幽界の存在は、人間の想念が好きなようです。
感謝の道は瞬時の真心です。強制が入れば阿諛、おべっかです。ここに感謝はありません。

感謝は、人の道として大事です。しかし、これに霊的意味を乗せると気が枯れます。穢れと即座に変わります。一念が三千世界に広がるのは真実なのです。純粋な感謝への思想に問題はありませんが自分が幸福になりたい、病気やけがをしたくない等と勝手に思うエゴイズム的な心で感謝想起をすれば幽界の存在は繁栄され幽界の消滅は永遠に無理です。
感謝道は、ありがたいと思う人の真心なのです。ここに不思議はありません。

「あり難しかたじけなしと拝(おろが)めば玉の涙はらはらと散る。」

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自分道

2012-05-20 19:38:05 | 人倫
我々人間は、生まれたその時から様々な環境で生まれてきました。当然思想や宗教も人それぞれです。あれはダメ、これはヨイと決めつけるのは道では、ありません。
色々な事を経験し、学び、自分なりに少しずつ悟り、自分の道を歩めることが確信であり覚神でもあります。ゆえに全ての宗教も思想や哲学も学問であり学ばなければ、普遍なる道に目覚めることもありません。自分の宗教の思想のみが正しく、他宗は邪教であると考えるのは、偏する心です。偏見を一たび持てば、心はそれに囚われ神人が持つ本性の天目が開くことも永遠にありません。

伊勢白山道では自分教と述べています。しかし伊勢白山道リーマン氏は兎角、宗教を霊的垢と称し、宗教はいずれ無くなるとも言われています。全ての有料先生を地獄に送るなどとも述べています。
人類発祥と同時に信仰が自然と発生し、中には、迷妄な邪悪な宗教が生まれ世が混乱しましたが、神は聖賢を世に降し真実の道を広めました。聖賢の道が宗教となり後世にも残っています。地球意識を知る者であれば地球神は全てを受け入れていることを知っています。これを垢と見えるのは偏りです。中庸の理こそが地球意識であるからです。
人にとってお金は大切です。自分を救い、そして人を救うのは、天の道です。ここに金銭が生じるのは人間側の都合であります。人を騙し金銭を取るのは、泥棒であり、因果の法則が働きます。有料先生と称される人と私は会ったことがありませんが、人を幸せにしたら、天国への道であり、依存させ不幸にするのであれば地獄へ行きます。お金は人間が造った便宜です。ここに神界の掟等はありません。人が人を地獄に送るのは傲慢です。人にそのような権限があるのでしょうか。
本来、伊勢白山道は感謝道の筈です。生かされてることに感謝する心が他に偏見があれば感謝道から離れてしまいます。

普遍なる道を歩めて初めて自分道となります。それは依存からの脱却です。親離れであり覚醒への道です。

「多く観 よく観 多く聞き よく聞き 多くかぎ よくかぎ 多く味わい よく味わい 多く触れ よく触れ 多く思い よく思い もって悟るよりほかに手はない。」出口日出麿

「目にみえぬ 神にむかひて はじざるは 人の心の まことなりけり。」

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仕事道

2012-05-12 21:19:57 | 人倫
皆さま、お仕事ご苦労様です。仕事は、生きるための道です。食う為の道です。あまり、選り好み出来ぬ道です。
日曜日を迎えると、ああ明日は仕事かと憂鬱になられる方は、多いと思います。私は、日曜日しかあまり休めませんので土曜日の仕事終いからウキウキし、日曜日の朝は、嬉しくて、早朝から起きてます。そして悲しき日曜日の夕方、嘆息しています。(笑)
もちろん、奥様の家事も大変な仕事です。病気で仕事に行けない方も病気を癒すのが仕事です。子供も学校に行くのが仕事。仕事は、止むに止めれぬ道なのです。
人は、他人の仕事を見ると楽そうでうらやましがる人が多いです。だけど実際は、それぞれ辛い立場を持っています。この世に存在する以上、人間関係、家庭問題、金銭トラブル、能力的に出来る出来ない。体力的に辛い、給料が安い等々様々な障壁が我が行く道を塞ぎます。それでも生きて行く上で働かなければなりません。労働とは聖書では、男に与えられた試練です。今の世の中、女性はもっと大変です。労働と出産の苦しみがあるからです。皆さま女性を大事にしましょう。
私は嫌な仕事に行かなければならない時、宝くじが当たれば会社を辞められるとか仕事場に行くときにどこかで事故に合いそのまま入院したい等と、妄想したことが、ありました。今はありませんが。会社を辞めて転職等も考えたこともあります。しかし、私は考えました。人の苦しみはカルマがある以上逃れられないし、逃げても形を変えてやって来る存在であると。ならば、現状を凌いだ方が良いのだと。
仕事でストレスは溜まります。だからこそ、坐禅や瞑想でリラックスすることはとても大事です。お酒も飲むのも過ぎなければ良いでしょう。私は、いつも晩酌を楽しみにしています。
人間関係では、人に良い人間だと思われたい為に良い事をするのは、ストレスです。私は、悪人を目指しています。(笑)自分自身が本当に親切にしたいと思った時は、見返りを求めず親切にします。したくない時は、しません。偽善為る心は、素直を迫害します。他人に囚われず素直に思ったことを為すのが惟神の道でもあると考えます。
職場には、嫌いな人がどうしてもいる筈です。それを私は、自然だと考えています。陰と陽は必ず在ります。私は好きな人がいても嫌いな人がいても、超然とするようにしています。それは坐をしている人の醍醐味です。
実際、人とは、陰陽の束縛やカルマの脱却が出来るのでしょうか。暗黒の時代、現化、降臨された至聖先天老祖は苦しむ人を陰陽の呪縛から解き放ち、カルマさえも瞬時に滅されたことがあるのです。我々は、内に神が在ります。内に老祖が在るのです。
生きて、道さえ歩めば苦難を乗り越える事が必ずできます。
いやだいやだと思いつつ、苛められつつ、真心込めて仕事を継続すれば陰陽もまた変わるのも真実です。
お互いに嫌い合う人達が10年したら仲良く仕事しているのを見たことがあります。人の世は、面白いものです。
日々の仕事では、誠が大事です。誠は、真心。怠惰や横着な態度での仕事は、道から反れます。至誠のみが天を動かすのが真実です。

「誠は、自ら成るなり。そして道は自らを道びくなり。誠は、物の終始、誠ならざれば物無し。」

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楽道

2012-05-08 22:10:56 | 人倫
楽してな怠ける、という意味では御座いません。

何事も楽しむに如かずです。

孔子の弟子の顔回は、とても貧乏で貧しい生活をされていましたが彼は、それを苦にしません。むしろ楽しそうであります。
孔子は生活が苦しい願回に、「何故、食べる物、着る物も満足に無いのに、そんなに楽しいのか。」孔子の問いに顔回は、「天が回り、地が動き、人が生きている道を見いだし、歩むのが楽しくて仕方が無いのです」と。

貧乏もまた道であり願回は、それすら楽しく物事の本質を悟っておりました。
孔子は、その徳を褒め、顔回の番頭に為ってその家を治めてみたいと言いました。天に愛される人は早世が宿命なのか、若い時に顔回は亡くなったようです。孔子は取り乱し悲しんだようであります。

早世な人が天に愛されるのも真実。長寿な人も天に愛されています。いずれにしろ全ての人は天に愛されているのです。

話がそれました。私は、先天坐法を老祖の為、自分を救う為にしていました。少しずつですが努力で坐をするのでなく、楽しくなってきて坐をするようになりました。2~3年の話では、ありません。

物事を成すには、3年で会得、5年で体得、10年で自得すると私は、考えます。そして、さらなる道へと。

だけど、私は、坐を放棄したことがあります。伊勢白山道氏との出会いです。伊勢白山道氏は、自ら瞑想をしたかとが、無いにも関わらず、瞑想とは弊害であると、自己の霊能力なる妄想力で述べ、他人に瞑想を辞めるべきであると、強制されておりました。

伊勢白山道の個別による説得力により、数日間、断念したことがございます。

しかし不死鳥は、蘇り羽ばたきます。私は全ての幻想、伊勢白山道の神示と云う妄想から解き放たれました。



今この時も仕事も生活も人間関係も楽しくない人は、多いです。しかし、物事は変ります。不変の存在は、神様のみです。

陰が極まれば陽が必ず訪れます。歯を食いしばりながら、病の痛みに耐えながら、心の苦しみに耐えながら。死を覚悟すれば全てが乗り越えられるのです。

耐えられなければ、私は、このように唱えます。「しせいせんてんろうそ」と。

道とは、歩めばその人が本源に至るのです。六道の輪廻の世界を漂ってた人が、根源の本に還れるのが楽しくない筈がありません。

老祖は、悲しみの海を渡る、その本源に至る慈船でもあるのです。

「子曰く、回の人為りや、中庸を択び、一善を得れば即ち拳々服膺してこれを失わず。」
「苦しい時もある。楽しい時もある。だからこの世は、面白い。」

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[平成三十年11月8日 文字の誤り等を一部訂正しました。]
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