南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

音楽としての『千の風になって』

2007-03-02 03:58:18 | Weblog
一昨日、シンガポールに帰る日に、成田空港で、秋川雅史さん
のCD『威風堂々』(この中に、『千の風になって』が入って
います)と、新井満さんのCDブック『千の風になって』を
買ってきました。

秋川雅史さんの『千の風になって』は、この間の暮れの紅白で
一気に有名になったのですが、新井満さんの原曲は聞いたこと
がありませんでした。このCDブックには、ピアノをバックに
した新井満さんの歌、そしてオーケストラをバックにした新井
満さんの朗読、そしてオーケストラによるインストゥルメンタル
の3種類が入っています。

秋川雅史さんの歌もよいのですが、ちょっと元気すぎるんじゃ
ないかなと思っていました。新井満さんの、少ししんみりした
感じの歌い方は、この詩にはまさにぴったりの感じがしました。
本人は、奥さんに、「自分の葬式のときには、遺影の裏から
このCDを流してほしい」と言ったそうですが、そんなふうにし
てこの曲が流れてきたら、リアリティがありすぎなんだろうな
と思いました。新井満さんが、つぶやくように歌う歌い方は、
シャンソンのようで、素敵です。

ここで十分満足したのですが、さらに、オーケストラバックの
詩の朗読です。新井満さんが自分で朗読しているのですが、
これもなかなかよいのです。何だか本当に死んだ人が風になっ
て語りかけてくれているような、そんな感じがする読み方です。

最後のインストゥルメンタルは、実はあまり期待していません
でした。詩がなければ、この曲は何の意味もなくなってしまう
とそう思っていたのです。しかし何気なく聞いてみたら、音の
中に、詩が見えるような気がするのです。様々な楽器が主旋律
を受け持っていくのですが、それが、まるで生命が様々な物に
形を変えて存在しているようなそんなメッセージを発している
気がするのです。管楽器の音は、大空を吹く風そのものだなあ
と思って聴いていたのですが、弦楽器も、ピアノもゆったりと
流れる風の雰囲気です。音自体で、千の風を表現しているのか
もしれないなと、そんなことを感じてしまいました。

インストゥルメンタルの楽曲にこんな気持を持ったのは初めて
でした。また自分は、音楽の専門的な素養もなく、わかったよ
うなことを言うとよくないとは思うのですが、音の一つ一つが
視覚的に迫ってくる気がしました。風になって自分のまわりを
通り過ぎるような気がしました。

もとの詩は、言葉だけの存在でした。それが音楽を伴うことで、
さらに多くの人のもとに、このメッセージが送り届けられてい
ます。音楽があるからこそ、より多くの人が、この詩を共有で
きているのです。

もとの詩を見てみました。作者不詳となっているこの詩ですが、
これは明らかに、自然発生的に生まれて伝承されてきたもので
はなく、どこかに作者がいて、その人が苦労して作ったものの
ように思えます。この12行からなる詩は、2行づつ韻を踏んで
います。つまりそれぞれの行の最後の言葉が同じような音で
終わっているのです。例えば、一行目の"weep"と二行目の
"sleep"は、音が同じ感じです。英語の伝統的な詩では、この
ような定型美を重視します。また、全体的な構造も2行、
4行、4行、2行という意図的な構造を持っています。
ここに作意を持った作者の存在が見受けられるのです。

文学的に見て、この詩がどれほど文学的価値の高いものなのか
わかりませんが、詩としては、韻を踏んではいますが、言葉の
使い方や構造はシンプルで、なんとなく、芸術家ではなくて
普通の人が書いたものではないかという気がします。

この詩を誰が書いたのかについてはいろんな説があるという
ふうに新井満さんの本の中に述べられていますが、インター
ネットで検索してみると、メアリー・E・フライ(Mary E. Frye)
というアメリカのボルチモアに住んでいた主婦が書いたという
のが最近の定説になっているような感じです。

タイムズ・オンラインの記事によると、この作者に関して
は、アメリカの新聞のコラムニストのAbigail Van Burenという
人が、1998年にいろんな資料を元にして研究した結果、これが
事実であることを認めたと書いてありました。

メアリー・フライさんは、1905年、11月13日に生まれ、2004年、
9月15日に、98才でこの世を去りました。普通の主婦で、この
詩を書いたと言われる1932年よりも前には、特に詩を発表した
りはしていなかったのだそうです。

当時、ヨーロッパでは、ユダヤ人の迫害が行われていましたが。
ボルチモアのメアリー・フライさん夫婦の家には、ドイツから
来たマーガレット・シュワルツコフというユダヤ人の女の子を
預かっていたようです。ドイツに残した母親は重い病気に
かかっていたのですが、女の子はドイツに見舞いに行く事が
できませんでした。ドイツでは、ユダヤ人排斥運動が進んでい
たからです。やがて母親は死んでしまいました。

ユダヤ人の女の子は、母の死の知らせを聞いたとき、「私は
母のお墓の前に立って、泣く事すらできない」と言ったのだ
そうです。それを聞いたメアリー・フライさんは、買い物袋の
茶色い紙の上に、この詩を書き留めたのだそうです。それは、
自然に詩となって現れたと、メアリーさんは語っています。

メアリー・フライさんは、オハイオ州のデイトンに生まれ、
3才で孤児となり、12才のときにボルチモアに来たそうです。
きちんとした教育は受けなかったようですが、本を読むのは
好きでした。

1927年、仕立て屋をやっていたクロード・フライ氏と結婚。
1964年に夫に先立たれます。娘が一人いたそうです。

この詩を書いたあと、彼女は著作権を主張しなかったようです。
むしろ著作として金儲けをすることを拒否していたようです。
ですので、この詩は一人歩きを始めてしまいます。まるで
風のように、名もなき詩は国境を越えて、世界のあちこちに
飛んでいき、世界の数多くの人々を癒すこととなるのです。
インターネットに書いてあることが真実だとは限らないので
すが、でもこういう事実ならばあってもよいのかなという気も
しますね。