鵺やイルカをテーマに鍛金をやっている職人が芸大の学長についている。
金工の中でも鍛金は音を出すために近所では嫌がられる。
昔芸大(美学校)は部外者でも比較的自由に出入りができた。
ところが今では監視室を通さないと入れてくれない。
芸大も段々閉鎖的になってきている。
芸大の門は狭き門となっているが、本当の芸術の門はさらに狭い門である。
そもそも芸大の存在理由が何であるのか良く分からない。
かならず必要なものなのかどうかである。
芸術が生まれる場所として保証されているわけではなく、ほとんどその可能性は低いわけである。昔の東京美術学校からは多くの芸術家排出されたと考えられているが、結局のところほとんどいないに等しい。
東京美術学校が出来る前に芸術家が居なかったのかというと、居たのである。
美術学校が出来るようになって、日本から芸術が消えたといっても間違いではない。
明治になって美術学校へ行かなければ新しい芸術は出来ないといつごろからか前国民は思い込まされていたようである。
たとえばヨーロッパでこういうのが流行しているなどというのは、日本人にとっては関係ないのである。
印象派であろうが後期印象派であろうが、それはあちらの事情である。
日本人はすぐに他国の流行に左右されそれに追随しないと遅れてしまうと考えるが、様式などはその国にとって必要なものが生み出されればよいのである。
江戸は日本文化の花が開いた。
お茶から発して、陶器・料理・俳句など日本独特の文化が形成された。
絵画も琳派などができ、光悦などと言った刀鍛冶が雅の世界を築きあげるところまで文化を高めた。
しかし、今芸大は何をやっているのかわからない。
国立だけに税金をつかって、学長が爆笑問題と対談して、一体何を表現したいのであろうか?
見ていると双方とも決行バカであることがよくわかった。
そういうことを表現するには別に対談などしなくとも顔を見れば分かるではないか?
立派なバカ面をしていたので、それは後世に残すことができる証拠とはなるであろう。