奥多摩線御嶽駅から遊歩道をあるいて25分。遊歩道とは道路へ出てから向かいの階段を下り、多摩川沿いを上流に向かって歩くのである。
雨の時など水が上がりそうな時は国道を歩くとよい。
いまはカヌーをやっている人たちが多い。
ついでにその近くでアユ釣りをやっているから、釣れるわけがない。
なぜ、こんな渓流で邪魔になるカヌーなどをやるのか?
そもそも日本ではカヌーなど文化伝統から言っても関係がない。
すぐに外国かぶれが始まるが、それで自然は汚れて行くばかりである。
汚い渓流の多摩川の沿道を歩くとこの日はいきなり真夏日になり、汗だくだくになってしまった。
せせらぎの里美術館は蕎麦屋を改造して作ったようだ。
思ったよりも小さな美術館である。
10時前に到着、先頭に一人待ち人。
登山のついでに立ち寄ったのか、これから登山をするのか、中型のリックサックが玄関わきに置いてある。
経歴を見ると登山愛好家に見えてくる。
そもそも魂を振るわせるのはその登山への情熱である。
もし、絵画のモチーフを求める画家ならば作品はもっと多様な気がしてくる。
尚且つ、アクリルは使わないであろう。
命がけで描かない画家はいない。
画家は自らの人生を賭して絵に向かうのである。
犬塚勉展の出品作品は少しだけである。
まあ、確かに写実である。
問題はバルザック流の空気があるかだ。
フレンホーフェフが存在するかどうかだ。
無かった!
実際に見ると、TVで見た時ほど鮮明感はなかった。
細密描写のうまい画家である。
いや細密描写のうまい画家に共通している何かの物足りなさがある。
ブナはブナを感じさせる。
これはブナであることがよくわかる。堂々としたブナの木である。
岩は岩である。堂々とした岩である。
岩は奥多摩にもかなりある。
うまいか下手かと言えば、うまい、と言える。
堂々としたブナの木は奥多摩では見つからないであろう。
雲取山などでも見るけることは困難なのかもしれない。
東北まで足を運べば立派なブナは見つけやすい。
そこは必ずしも危険というわけではない。
しかし、これらの絵には、岩でもブナでもないそれ以上のものが欠落している。
たぶん、その欠落しているものを現すのが芸術家であろうが、
犬塚氏は登山にのめり込み、登山家となってしまった。
だから、谷川岳で滑落で亡くなってしまった。
どことなく死に急いだところがある。
自然と一体になりたければ、どこにいてもなれる。
どこにいてもなれないようでは、自然と一体になることはできない。
どこにいても自然と一体になれれば、もはや自我などなく、傑作が生まれるであろう。
そうすれば山であろうが、海であろうが、岩であろうが、作品にまたとない輝きが生まれるであろう。
画家はモチーフを求めて山へ行くことがあっても、登山を求めて山へ行くことはない。
高島野十郎は秩父の渓流で川を眺めていた。いつまでも眺めていると、川の流れが止まり、岩が動き出したと言っている。そしてそのときに観察した絵を残しているが、もはやその絵は単なる風景ではなく、風景から現れてくる何かが現出しているいるのである。
それは岩でもブナでもない芸術である。
高島野十郎には画家の資質があった。
連作の?燭の作品はそれが単に?燭しか描かれていないが、
それが単に?燭であるというには、何かが違っている。
もっと深いものを感じさせる。
単純に言って、絵は単に見るものではない。
惹きつけられるものである。
だからわざわざ海外まで足を運んでまで、絵を見たいと思うのである。
犬塚勉もTVだけでは分からないので一度本物を見ておきたいと思い、片道4時間をかけ、
起床3時半、弁当を拵えて出かけたのである。
問題は描かれていないものが、存在するかどうかを確かめに行ったのである。
もし、それが描かれていれば、若くして死んでも何ら悲しくはない。
しかし、彼は勘違いしている。
美術館の訪問記録を見るとすべての人が感動したと書いている。
わたしはこの小さな美術館に1時間以上滞在したのであるが、
中々よくは描けているとおもったし、
足りないものをつかめていないという思いにも駆られた。
だから、感動はしなかったのである。
感動とは私の心臓をぎゅっと握られる手ごたえでなければならない。
それぞれの人によってその感動は異なるとは言え、
芸術の一流品はその感動がそれぞれの人によってそれほど異なるものではない。
見ないよりは見ることの意義は大きいが、わざわざ行って見る価値があるとも思えなかった。
知人を誘っていくと、却って面倒になっていただろう。
工芸家はのっけから、興味を持っていなかった。
しかし、これだけのものを描くにしても血の出る思いをしなければならない。
一応、犬塚氏にはそれなりに頭が下がるのである。そして仲の良い夫婦としてうらやましいのである。危険な山登りをしている時間があったらなぜ描かないのか? 画家は寡作でも大丈夫だが、1枚の絵を仕上げるために数10年掛けてもよいのである。
そうすると傑作などは常人にはいくら血を絞っても出来るものではない、ということがわかる。
それだからこそ、昔の人たちは王侯でさえも芸術家が神と人間の中間の存在だと考えていたのである。
そして敬ったのである。
我々は芸術に対して謙虚にならなければならない。芸術は神からの啓示であるとベートーベンは言っている。何かそれ以外のものであるということはない。まさにそのものだからである。
わたしは犬塚勉氏の画集が行きわたってもよいと思う。
今、出版不況で出版社は画集を出すだけの余力がない。
もし犬塚氏が生きていれば登山の記録を文書にし、それと共に絵を載せるということで、犬塚氏の人生が見えてくるような気がする。
この画家は画家を主体として紹介するにはまだ弱すぎるが、登山と一体化して世に送れば植村直己のように国民に愛されると思う。
それが出来るのは共に登山経験を持つ奥さんであり、今ならそれは可能だと思う。
雨の時など水が上がりそうな時は国道を歩くとよい。
いまはカヌーをやっている人たちが多い。
ついでにその近くでアユ釣りをやっているから、釣れるわけがない。
なぜ、こんな渓流で邪魔になるカヌーなどをやるのか?
そもそも日本ではカヌーなど文化伝統から言っても関係がない。
すぐに外国かぶれが始まるが、それで自然は汚れて行くばかりである。
汚い渓流の多摩川の沿道を歩くとこの日はいきなり真夏日になり、汗だくだくになってしまった。
せせらぎの里美術館は蕎麦屋を改造して作ったようだ。
思ったよりも小さな美術館である。
10時前に到着、先頭に一人待ち人。
登山のついでに立ち寄ったのか、これから登山をするのか、中型のリックサックが玄関わきに置いてある。
経歴を見ると登山愛好家に見えてくる。
そもそも魂を振るわせるのはその登山への情熱である。
もし、絵画のモチーフを求める画家ならば作品はもっと多様な気がしてくる。
尚且つ、アクリルは使わないであろう。
命がけで描かない画家はいない。
画家は自らの人生を賭して絵に向かうのである。
犬塚勉展の出品作品は少しだけである。
まあ、確かに写実である。
問題はバルザック流の空気があるかだ。
フレンホーフェフが存在するかどうかだ。
無かった!
実際に見ると、TVで見た時ほど鮮明感はなかった。
細密描写のうまい画家である。
いや細密描写のうまい画家に共通している何かの物足りなさがある。
ブナはブナを感じさせる。
これはブナであることがよくわかる。堂々としたブナの木である。
岩は岩である。堂々とした岩である。
岩は奥多摩にもかなりある。
うまいか下手かと言えば、うまい、と言える。
堂々としたブナの木は奥多摩では見つからないであろう。
雲取山などでも見るけることは困難なのかもしれない。
東北まで足を運べば立派なブナは見つけやすい。
そこは必ずしも危険というわけではない。
しかし、これらの絵には、岩でもブナでもないそれ以上のものが欠落している。
たぶん、その欠落しているものを現すのが芸術家であろうが、
犬塚氏は登山にのめり込み、登山家となってしまった。
だから、谷川岳で滑落で亡くなってしまった。
どことなく死に急いだところがある。
自然と一体になりたければ、どこにいてもなれる。
どこにいてもなれないようでは、自然と一体になることはできない。
どこにいても自然と一体になれれば、もはや自我などなく、傑作が生まれるであろう。
そうすれば山であろうが、海であろうが、岩であろうが、作品にまたとない輝きが生まれるであろう。
画家はモチーフを求めて山へ行くことがあっても、登山を求めて山へ行くことはない。
高島野十郎は秩父の渓流で川を眺めていた。いつまでも眺めていると、川の流れが止まり、岩が動き出したと言っている。そしてそのときに観察した絵を残しているが、もはやその絵は単なる風景ではなく、風景から現れてくる何かが現出しているいるのである。
それは岩でもブナでもない芸術である。
高島野十郎には画家の資質があった。
連作の?燭の作品はそれが単に?燭しか描かれていないが、
それが単に?燭であるというには、何かが違っている。
もっと深いものを感じさせる。
単純に言って、絵は単に見るものではない。
惹きつけられるものである。
だからわざわざ海外まで足を運んでまで、絵を見たいと思うのである。
犬塚勉もTVだけでは分からないので一度本物を見ておきたいと思い、片道4時間をかけ、
起床3時半、弁当を拵えて出かけたのである。
問題は描かれていないものが、存在するかどうかを確かめに行ったのである。
もし、それが描かれていれば、若くして死んでも何ら悲しくはない。
しかし、彼は勘違いしている。
美術館の訪問記録を見るとすべての人が感動したと書いている。
わたしはこの小さな美術館に1時間以上滞在したのであるが、
中々よくは描けているとおもったし、
足りないものをつかめていないという思いにも駆られた。
だから、感動はしなかったのである。
感動とは私の心臓をぎゅっと握られる手ごたえでなければならない。
それぞれの人によってその感動は異なるとは言え、
芸術の一流品はその感動がそれぞれの人によってそれほど異なるものではない。
見ないよりは見ることの意義は大きいが、わざわざ行って見る価値があるとも思えなかった。
知人を誘っていくと、却って面倒になっていただろう。
工芸家はのっけから、興味を持っていなかった。
しかし、これだけのものを描くにしても血の出る思いをしなければならない。
一応、犬塚氏にはそれなりに頭が下がるのである。そして仲の良い夫婦としてうらやましいのである。危険な山登りをしている時間があったらなぜ描かないのか? 画家は寡作でも大丈夫だが、1枚の絵を仕上げるために数10年掛けてもよいのである。
そうすると傑作などは常人にはいくら血を絞っても出来るものではない、ということがわかる。
それだからこそ、昔の人たちは王侯でさえも芸術家が神と人間の中間の存在だと考えていたのである。
そして敬ったのである。
我々は芸術に対して謙虚にならなければならない。芸術は神からの啓示であるとベートーベンは言っている。何かそれ以外のものであるということはない。まさにそのものだからである。
わたしは犬塚勉氏の画集が行きわたってもよいと思う。
今、出版不況で出版社は画集を出すだけの余力がない。
もし犬塚氏が生きていれば登山の記録を文書にし、それと共に絵を載せるということで、犬塚氏の人生が見えてくるような気がする。
この画家は画家を主体として紹介するにはまだ弱すぎるが、登山と一体化して世に送れば植村直己のように国民に愛されると思う。
それが出来るのは共に登山経験を持つ奥さんであり、今ならそれは可能だと思う。