South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
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カワハギの煮付け

カワハギの煮付け(日本酒を鍋に入れ、わかして火を入れてアルコール分を燃やし、醤油で味を付ける。ショウガ、トウガラシを入れる。ささがきゴボウ=ゴボウを筒切りにして包丁で叩くのがよいが、代用。本当は昆布をダシにするが入れるのを忘れた。カワハギのみを入れて、落としぶたをし、10分ほど煮付ける)
菜花のごまと和辛子和え
昨夜のイモ煮ののこり(煮物の常かもしれないけれど、十分に込めなかった分、二日目の方が味がしみて美味しい)

今日は、夕方に会議で買い物を終えて帰宅したのが19時半近かったが、8時15分には食べ始めることができた。

2004-10-27 22:39:18 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


読了・女性天皇

瀧浪貞子、2004、『女性天皇』集英社新書
飛鳥から奈良にかけての時代、天皇家では数多くの女帝を戴いた。その理由について、皇位継承法を読み解くことによって明らかにしようとした。この時代は、皇位継承法が嫡子相続へと定着していこうとする時代であったという。そのてん、江戸時代の女帝に関しては、著者の意図するところとは違うとして、本書ではふれられていない。また、著者も書くが、ジェンダー論の立場から女帝の時代を読み解こうとする試みは、あまりにも現代的な視点に傾きすぎている。その時代の女帝観が明らかにされることが望ましいであろう。
記紀神話の時代については資料として扱わず、その後の応神・仁徳の時代から、奈良にかけての皇位継承法は兄弟継承であった。仁徳の息子たち履中・反正・允恭、それを引き継ぐ允恭の息子たちの安康・雄略、継体の息子たち安閑・宣化・欽明、さらには、欽明の息子たち敏達・用明・崇峻。これらは、いずれも、異母兄弟も含め父から引き継いだ皇位を兄弟で相承してゆく。また、皇位は皇族たちの合意の元に行われていたという。しかし、これらの時代、天皇の存命中に皇太子が定められていればよいが、さもなければ、すんなりと相続できたとはいえない。かならず、ここには血なまぐさい権力闘争が存在したのである。
こうした中、次の世代に順調に皇位を相承させるためのシステムとして女帝が機能したというのが著者の主張である。すなわち、皇太子が定められていない場合、女帝が皇位を継ぎ、次世代に橋渡しをするというのである。こうしたの最初の女帝が推古であった。崇峻が皇太子を定めぬまま死亡した後、兄弟相承ならば継承権を持つと主張する穴穂部は反旗を翻し、これを討って推古が皇位を継ぐ。そして、推古の摂政には20歳代の皇太子の厩戸がつき、彼が存命で当時の継承年齢の30歳を超えれば、皇位を継承したであろう。しかし実際には、厩戸は死亡し、推古の孫に当たる舒明が皇位を継承する。
さらに、大化の改新の前、舒明が死亡した後、皇后の皇極が二人目の女帝として皇位を継承する。このとき、従来の皇位継承法ならば厩戸の息子の山背、舒明と蘇我系の妻との息子の古人、また、舒明と皇極の間には成人前の中大兄(天智)と大海人(天武)がいた。従来であればこれらの中から人望篤い者(もしくは、実力者)が継承したわけである。古人を推した蘇我入鹿は、有力な競争相手である山背を討つ。欽明・皇極の息子の中大兄はその対象ではなかった。入鹿ら旧世代の常識では、中大兄は継承権において弱かった。しかし、中大兄は入鹿を討って、大化の改新によって権力をにぎったが、それにもかかわらず、中大兄は皇位につかない。皇極の弟の孝徳に継承させるのである。さらに、慎重に慎重を重ね、孝徳の後、皇極に重祚をさせ、自ら皇太子となるのである。
天智の死後、弘文をおそって壬申の乱により皇位についた天武は天智の娘の鵜野(持統)を妻にし、その息子である草壁の系統に皇位を継がせようとする。天武がなくなった後、草壁に引き継がせるべく持統が皇位を中継する。しかし、草壁はなくなり、持統の意志を継いで草壁の妻である異母妹(天智の娘)の元明がさらに皇位を中継する。そして草壁系(天智と天武の双方の血をひく)の文武が即位するのである。この後、曲折はあるにせよ、直系の皇統に皇位が継承されていくのである。
事例は多く挙げられていて、興味深くこの時代の皇位継承システムについて理解を進めることができた。そして、著者の最後の言葉がなかなかうんちく深かった。現代の皇室の抱える皇位継承者の不足、その結果、女帝を許容しようとする動きをふまえ、次のように言う。
「しかし、たんに男性の有資格者がいないから女帝を認めるといった糊塗的な対処であっては、問題の先送りにすぎず、何ら本質的な解決にはならないであろう。ジェンダー論が求められるのは、そのときである」。

2004-10-27 15:25:24 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )