

ここに掲げた1914年41歳の時の作品「白狐」は発表当初、「木の間の秋」の繰り返しに過ぎないなどの批判を浴びたとのこと。再興第1回院展の出品作とのことである。しかし私にはとても新鮮なものに見えた。「木の間の秋」が洋風の遠近法などの技法が目につくという指摘もあるが、この絵もその延長上にあることは確かだろうが、その技法上の処理が目につかないで、日本画風の画面にてしっくりと収まっているように私には感じる。わざとらしさが目につかなくなっているけれど、様式美を獲得しているのかな、と思う。
黄葉の状態からは大分秋も深まり、冷気が開いた薄の穂から見るものの身に迫ってくるようだ。現実にはありえない白い狐が画面の色の配合の中から浮き上がってくるのも面白い。加えているように見える葉はカタログでは「稲穂」となっているが、笹のようでもあり薄の葉のようでもあり、よくわからない。稲穂だとしたら何の寓意なのだろう。
手前の太い木と倒れた木は樹皮から桜の木か、ダケカンバに見える。桜だとしたら秋深い森に春の予兆、狐の繁殖を示したのかもしれないと一人勝手に考えてみた。
カタログでは左の空白・余白は天心亡き後の観山の喪失感をあらわす、と書いてあるがそこまで読み込むのは、どうであろうか。何か知識の振りかざしにしか思えない。素人に「プロ」の知識をひけらかしているだけのような気もする。「空白・余白が好ましい」といえばいいのではないだろうか。
これはとても気に入った作品である。


この作品「老松白藤図」は1921年、観山48歳の作品。私はこの絵に圧倒された。右双の太い松の幹のクローズアップにびっくりした。幹のこのような存在感、重量感、力強さを見たのは初めて、と思った。
そして白い藤の色が印象的だ。右双だけカードを販売していたが、残念ながらこの絵の命ともいうべきこの白が薄くしか写っていない。これはカード制作時の色のチェックが甘かったと思う。台無しである。カタログの色の発色は実際にかなり近いので、この白が映えている。カタログからスキャンしたので、頁の境目が不自然になったのは許して欲しい。
ただしあくまでも装飾的な景色であることを踏まえないといけない。
松の枝ぶり、葉の緑のリズムと白い藤の花のリズム、細い枝の感じがどれも対照的である。このリズム感がとてもいい。そして藤の枝や花が、古い松の無骨な肌に対して柔らかさが際立ち、若々しい。カタログでは松の様相に能舞台も想像されると記載されている。あるいは作者はそれを意図したのかもしれない。それにそれに絡む藤というのは何か妖艶なものの雰囲気もある。
今回の展示では2回ともこの作品の前で時間をかけて楽しんだ。

これは1930年、作者57歳の時の最後の作品。
食道がんで亡くなったとのことである。衰弱が進む中、1週間かけて制作し翌日から倒れ、8日後に亡くなったとのこと。
生命力の象徴のような竹の子を静かな雰囲気の中に収めている。緑の葉や芽がみずみずしい。何気ないものが生命感を内に秘めて、それが滲み出し、溢れ出てくるような時間をとらえていると感じた。この絵も私は好きだ。
なお、小倉山という作品のカードが右双・左双ともに売られている。これはうれしいのだが、よく見ると右双は絹目で印刷も新しい。ところが左双は光沢紙の画面で印刷がいかにも古い。色合いは共に良く出ているのだが、いくら古いカードがあるとはいえ、これは手抜きでは無いだろうか。少なくとも新しい方の右双は、古い左双にあわせて光沢のするくらいの統一性は保って欲しいと思った。