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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

浜離宮と大森の鹿嶋神社

2013年01月02日 22時36分20秒 | 山行・旅行・散策
                     

 本日は親族から放鷹術の実演が行われるのを見学しようというのに誘われて浜離宮を訪れた。この公園、正式には「浜離宮恩賜庭園」という。私はこの「恩賜」という言葉がどうしても許せなくてこれまでも行こうかどうか悩んでいつも遠慮していた。
 この「恩賜」ということば、あまりに恩着せがましいというか、押ししつけがましいというか、どうしても私にはなじめない言葉である。もとは、徳川家の鷹狩場、別邸から明治維新後皇室の離宮となり、敗戦を機に都に「下賜」されたのが1945(S20)年11月。1952年11月には国の特別名勝・特別史跡に指定された。

  

 まあ「恩賜」という言葉にこだわって見に行かないというのも依怙地過ぎるし、庭園として見てみたい気持ちはあったので、今回の誘いにとりあえず乗ってみた。
 ただし放鷹術の実演の方は、参加者が多いのと、大量の鴉がすぐ近くに群れを成して舞っていたためであろうか、鷹が高木に止まって警戒して動かなかった。実演者には気の毒であったが、鷹のご機嫌はなおらず、訓練の成果の披露にはあまりならなかったようだ。私も多くの人の頭ごなしではほとんど実演者も見ることもできず、早々にその場を離れて庭園を散策した。
 すべての庭園の見所を見学は出来なかったが、池の中にある「中島の御茶屋」で抹茶と練切を注文して、それなりに満足した。高層ビルに囲まれ強風が舞う中でも静かな空間は確かにとても好ましく、貴重なものである。いい雰囲気だ。そして貴重な庭園美を維持管理する労力は、金も人手もかかる。今の自治体を巡る状況は厳しく、その上首長の動向はこういう労力を切り離そう、切り捨てようとしている。貴重なオアシスは大切に維持管理してもらいたいものだ。

               

 16時過ぎには日がかげり寒くなったので、大森にある親族の家で恒例の新年会を開いた。大森には鹿嶋神社があり、この干支の置物も妻は楽しみにしている。新年会の前にちょっとあわただしかったがここを訪れて置物を購入した。ここの神社、元日や2日の昼間は初詣で長蛇の列が出来る。さいわい日が蔭ってから行ったので3分ほど並んだら参拝できたようだ。
 新年会、お酒は持参しなくてはいけないので大森駅のスーパーのお酒コーナーで調達した。昨日記載した宮城の浦霞を販売していたのが目に付いたのだが、4合も1人では飲みきれない。ちょうどその横に八海山の発泡にごり酒という2合瓶が置いてあった。14.5度のアルコール度で2合というのはちょうどいいのでこちらを購入した。八海山はよく購入する日本酒で大変おいしいとの評判であるとのことだ。

   

 本日はこのお酒でご満悦。ただし発泡酒、日本酒の自然発泡といわれる微発泡ではなく、人工的に炭酸を加えたもので、このアルコール度は強いのかなと感じた。アルコール度を下げるか、炭酸を弱くするか、どちらかにした方がいいように感じた。

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11 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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昔は (大納言)
2013-01-03 12:07:34
士官学校を出れば恩賜の軍刀が貰えたものですがね。
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ううむ鴉狩りはしなかったとな (通りがかり人)
2013-01-03 13:59:01
昔、鷹狩りの行われた時代、カラスの存在についてはあまり、記された小説はみたこと無かったが、現代のように、都会の御じゃま鳥ではなく、もっと存在感も薄い鳥だったのかなあ、と、考えてしまいました。
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大納言様 (Fs)
2013-01-03 17:23:45
今では、許可を受けたものしか刃のついた刀は所持できないんですよね。戦前はどうだったのでしょうか。士官学校出身者は自動的にその種の資格を所持したのでしょうか。
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通りがかり人様 (Fs)
2013-01-03 17:31:11
鴉は、特に冬の鴉の鳴き声はさびしく寒々しい景色の代名詞でもあったと思いますが、どうでしょうか。
また歌にもあるように、秋の夕暮れにねぐらに戻る鴉の群れてなく様子は郷愁を掻き立てるものでした。
ということはそれほどの数はおらず、また人を脅かしたり、生ゴミを食い散らかすようなことはなかったと思います。
日本で、鴉を悪者・毛嫌いするようになったのは戦後もごく最近のことなのではないでしょうか。
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武器所有 (大納言)
2013-01-03 19:20:44
どうでしょう。軍人が武器を持っていて当たり前ですが、あのころは民間人でも拳銃を所持したりしてましたからね。こんな風に厳しくなったのは戦後じゃないでしょうか。戦後すぐは映画の撮影でも、警官立ち会いの下に本物の拳銃を使っていたらしい。
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大納言様 (Fs)
2013-01-03 19:38:21
wikiによると、「銃砲・刀剣類の所持規制は明治時代から行われ、「銃砲火薬類取締法」(明治43年法律第53号)において、銃砲類の市販製造は政府への登録制とし許可無く所持することが禁止されていた。また、刀剣類についても廃刀令、帯刀禁止令(明治9年太政官布告第38号)により大礼服着用者・軍人・警察官以外の帯刀は禁止されていた」
とのことでした。
現法律は1958(S33)年3月に成立したそうです。ここで軍人とはおそらく士官学校卒業者のことと思われます。徴兵による兵、下士官は軍人の範囲外と言うことではないでしょうか。

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そうですか (大納言)
2013-01-03 22:44:17
一兵卒も完全装備では銃と銃剣は必携ですから、範囲外とは思われませんね。軍隊ではOKでないと困ります。
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烏… (葦原の山姥)
2013-01-04 01:15:22
「三千世界の烏を殺し…」の都々逸や、『三枚起請』・『明烏』といった噺があることから、江戸時代(江戸の人々)にとって烏は身近な存在だったような気がします。
地方のことはよくわかりませんが…八咫烏なんてのもありますから、熊野信仰が盛んな地域では大事にされたかもしれません。

ところで、都内には“恩賜”の公園が十近くあるのではないかしら。
上野公園も“恩賜”ですから、拘っていては動物園にも博物館にも行けません(笑)。
ま、“恩賜公園”も専ら烏がねぐらに活用しているのでは(苦笑)。
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こんな記事を発見……… (葦原の山姥)
2013-01-04 02:45:50
http://blogs.dion.ne.jp/yohaku/pages/user/m/article?article_id=11042718
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大納言様 (Fs)
2013-01-04 11:04:10
士官は24時間、多分家に刀を保管し、正装で出かけるときやは佩刀で出かけたのでは?軍隊施設外でも着用でき、法律の適用外ということではないでしょうか。
兵・下士官は日常は刀を所持できなかったのではないかな。軍隊の敷地の中での着用でしょうから、施設内では法律の適用外だったのではないでしょうか。一般市街地などでは佩刀は所持していなかった、出来なかったと思いますよ。
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