Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日から「文学が裁く戦争」 その1

2023年11月25日 18時38分38秒 | 読書

   

 昨晩から本日にかけての読書は「バロック美術」の第4章「幻視と法悦 幻視絵画から総合芸術へ」。そして本日いつもの安価なチェーン店の安価なコーヒーを飲みながら「文学が裁く戦争」(金ヨンロン、岩波新書)を読み始めた。
 いつものとおり2冊の同時進行。同じ系統の本は頭の中が混乱するので、同時進行は無理。系統の違う本は飽きが来たり、頭の中が飽和仕掛けたときに有効である。気分転換にもなる。
 土曜日ということで、横浜駅から少し離れたオフィス街にある喫茶店。入店したときは空いた席は一人分だけだったが、ちょうどピークが過ぎたばかりのようで、15分もしないうちに店内はガラガラになった。
 「文学が裁く戦争」の第1章を読み終えて、少し早めだったがバスにて帰宅。

大佛(次郎)は「あの無表情なマスクの裏にどんな心が隠れていたかは今は知る由がないが、悪かつたと誰も云わなかつたのが不思議なような心持がする」と文章を閉じる。この素直な違和感こそ、東京裁判とその判決が残した課題であった‥。そこにかけ炊いたのは、被害者への想像力であり、戦争および戦争犯罪に対する加害意識であったのだ。

当時の文章に直接東京裁判を批判したり戦犯を陽子氏足りすことで、露骨な過去への賛美を表すものはあまりない。むしろ、溥儀への批判に明らかなように、裁判への不満は、旧植民地への憎悪といった形で、宛先を間違えて発露しているように見受けられる。そこに植民地支配への責任という意識は読み取れない。

戦地という特殊な場所で、戦闘員の特殊な精神状態において行われた暴力として残虐行為を理解し、軍隊を一般社会から切り離すメディアの捉え方に対して、中野重治は戦場の軍隊と国内の警察を結びつけ、暴力の連続性を可視化する。被告たちの行動を特殊な状況における異常な行動とのみみなして群や警察の組織の問題に触れようとしないことは、戦時中の国内的暴力を見過ごすことにつなから、さらに、いま占領かで行われている暴力をも容認しかねない‥

同時代において作家たちは、戦争裁判において被告席に立たされるような当事者ではなかったが、出来事の傍観者になることも許されていなかった。戦時中に書いた作品によって審判されていたこと、東京裁判とともに文学者としての戦争責任が考えられていたことは、忘れてはならない。林芙美子が苦悩の中で、物語の主人公であるゆき子に、物語内において下した死は、戦争裁判への一つの答えだった



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