「孤独な魂」(1956、個人蔵)は確かにオディロン・ルドンの影響がある。白い三日月上の口と思われる部分の上には、図録では判然としないが黒い円が描かれており、眼を表すようである。解説では「さみしさ、あるいは悲しみを讃えている」と書かれている。またルドンの「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」も参考として掲げられている。
私は、同じルドンの「キュクプロス」の眼のほうが清宮質文の描く眼に近いと思う。海のニンフであるガラテアに恋した巨人族キュクプロスのポリュペモスの片思いの悲劇に材を取った「キュクプロス」はルドンの家族関係の悲劇の反映でもあるらしい。暴力的に悲劇の幕が下ろされる以前のポリュペモスの報われない想いが、この一つの眼の「さびしく悲しい」視線に託されている。
清宮質文の眼もまた、いづれの作品でも破滅的な悲劇にはならずに抑え込まれて沈潜していく「寂しさ、悲しさ」としてあらわされていると思う。人気の秘密はここにありそうである。人は誰もがそのような感情を抱えながら、そして破局を迎えることを回避しながら生を生きていく。
ルドンが黒の世界から60歳を超えて色彩が溢れる世界へ飛翔したように、清宮質文もまた晩年に至って水彩やガラス絵などで色彩が明るくなっていく、と断言してしまうのは早計だろうか。